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「豪雨を幸いに義元本陣に近づいた信長。一気に最後までお読み下さい」  桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その23

179 両軍が対峙すると突然の暴風雨に見舞われる。正面から吹き付ける雹(ひょう)まじりの豪雨で今川勢が面をあげられないことを幸いに、信長は風に背中を押されるまま軍勢を長坂道ではなく閑道、すなわち有松地峡の原初東海道へ導いた。#信長 #信長公記 #桶狭間

180 前述のようにかろうじて人が通れる閑道があり、風雨に背中を押されながら信長勢はそこを移動した。長坂道を進んで今川殿軍を攻撃することなく、迂回してさらに東にいるはずの義元本体へと向かったのだ。暴風雨を利用して動いたことこそ信長の戦術眼の鋭さを示している。#信長 #信長公記 #桶狭間

181 信長公記『陽明文庫本』で問題になる「沓掛の峠」に関しても以下のように説明できる。「沓掛の松の根元に、二抱え、三抱えもある楠が雨に降られて東へ倒れた」とかかれた一文は、太田牛一がその日の豪雨の激しさを語るための創作という見解がある。#信長 #信長公記 #桶狭間

182 しかしここでは伝聞であったことを表す「由(よし)」という文字を牛一は用いていないため、直接体験したものとして扱うべきだろう。つまり突撃前の信長勢の進んだ場所は、山際から「沓懸ノ松之本」を見通せた場所でなければならない、ということだ。#信長 #信長公記 #桶狭間

183 信長は雨中、閑道(いわゆる原初東海道)を進んでその場所まで到達していたのだ。ではそれはどこか。楠木の大木が吹き倒されるところを実見できる場所は、現在の国道一号線「大将ヶ根交差点」の辺りだろう。その先が現在の字「境松」という地名となる。#信長 #信長公記 #桶狭間

184 「境松」は標高27メートルと原初東海道では一番高い、まさに「沓懸ノ到下(峠)」だ。現在でもここから国道一号線は下りとなる。そこにあった楠が倒れるのを信長勢が見て、並外れた風雨の猛威に驚き、熱田大明神の神風かと士気が上がったのである。#信長 #信長公記 #桶狭間

185 沓掛の峠とは、通説で考えられているような北に大きく離れた鎌倉街道・二村山の峠などではない。二村山の峠が「沓掛峠」と呼ばれた事実はないし、この時代になると街道は峠を迂回するようになっており、二村山の峠道は街道の役割すらはたしていなかった。#信長 #信長公記 #桶狭間

186 雨の中、閑道(いわゆる原初東海道)を現在の国道一号線「大将ヶ根交差点」の辺りまで進んできた信長勢は、雨が上がると同時に南側の道もない狭間を通って北側から桶狭間村へなだれ込んでいった。そこは現在の生山と名古屋短期大学の間になる。#信長 #信長公記 #桶狭間

187 この狭間は江戸時代になって溜池が作られたことで竹次(たけじ)池の名前がついた場所(地元では現在釜ヶ谷と呼んでおり、池も埋め立てられている)で、信長はそこから深田の縁に沿って、近崎道で桶狭間山の麓を現在の大池の東あたりまで進んだ。#信長 #信長公記 #桶狭間

188 そこで義元の塗興(ぬりこし)を発見し、同時に桶狭間山(64.9メートルの山)の山頂に旗本の集団を発見すると、ここで前軍に東に向かって突撃するように命令を下したのだ。地元説のように山をわざわざ越えたりはしていない。#信長 #信長公記 #桶狭間

189 信長勢が攻撃を始めると一瞬で今川本陣が崩れたち、山上の義元の前で山際に控えていた塗輿も放置したと「首巻」には書かれているから、今川勢の敗走した距離も短く、織田勢の追撃した距離もまた短かかったと推測できる。#信長 #信長公記 #桶狭間

190 今川勢は北側の原初東海道上には逃げられない。深田に遮られて西へもまた逃げられない。東の大脇村方面は「高ミひきミしけり、節所と云事無限(高かったり低かったりした藪が密集しており、大変な難所)」であったからこちらへも逃げられない。#信長 #信長公記 #桶狭間

191 南には桶狭間村の集落があったが、こちらも小山の影になって逃げにくかった。唯一の逃げ道は近崎道とよんでいる深田の東をめぐる街道だけだ。ところが牛一の『信長公記』各本によれば、信長は「東へ向て懸り給ふ」とあり、近崎道側から攻め上ったことになる。#信長 #信長公記 #桶狭間

192 つまり唯一の逃げ道から信長軍が攻めてくるのである。道へ下りることもままならなかった義元の旗本たちは「義元を囲んで後退していたが、二度三度、四度五度と引き返しては」信長の攻撃を防いでなんとか桶狭間村集落か大高道へ逃れようとした。#信長 #信長公記 #桶狭間

193 しかし藪に阻まれ、組織的な退却戦を行うこともできないまま、『天理本』では服部小藤太、『陽明文庫本』では服部小平太が義元に攻めかかり、毛利新介に斬り伏せられて討ち取られたのである。#信長 #信長公記 #桶狭間
 
194 つまりこの戦いは『甫庵信長記』が言うように、折からの風雨を利用して、今川軍を「迂回した奇襲」だったのであり、昔の人々が「折からの豪雨を利用して、今川軍に密かに接近し、奇襲をかけた」と考えてきたのは、実はまったくもって正しかった。#信長 #信長公記 #桶狭間

195 繰り返すが江戸時代もごく初期であれば、小瀬甫庵などは牛一の書いた桶狭間の戦いを正しく理解できていただろうし、またその読者も何の疑いもなく正確に理解したと考えられる。しかし時とともに自儘に解釈した文書が作られていったのだ。以上が閑道迂回奇襲説の概要である。#信長 #信長公記 #桶狭間

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