桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その1

ツイッターへ短い記事で桶狭間の戦いについて投稿しています。
それのまとめをこちらに載せておきます。

1 今年は光秀vs信長で本能寺が盛り上がる一年になりそうですが、織田信長の全国史へのデビューは桶狭間の戦いです。義元vs信長のこの戦いには、多くの謎があります。昨年この戦いの新解釈を雑誌発表しましたので、今年はここで少しずつ書くことにします。#信長 

2 新解釈を提示したのは、民間の歴史研究者である「かぎや散人」という方です。私はその新解釈を広めるお役目を仰せつかっていると自負しております。かぎや氏は住まいを尾張から移されましたので、尾張那古野に住んでいる私が、地の利を生かして書いていこうと思います。#信長

3 桶狭間の戦いは永禄3年(1560)、その年までに尾張を統一した織田信長が駿河、遠江、三河を支配した大大名今川義元を討ち取った戦いというあたりは、多くの人が知っているはず。よく信長は小大名と言われるが、実は義元に並ぶ財力を持っていたことはあまり知られていない。#信長

4 桶狭間の戦いは、450年に渡り、様々な説が提示されてきた。30年ほど前までは明治の陸軍が提示した迂回奇襲説が定説だったが、それは現在否定され、正面攻撃説が定説となっている。しかし、一般にはまだ、奇襲戦によって小勢の信長が大軍を破ったと思われているようだ。#信長

5 まず桶狭間の戦いに関するこれまでの定説の説明を。明治32年に日本陸軍参謀本部が発行した『日本戦史 桶狭間役』に記載されたのが「迂回奇襲」説とよばれるもの。新興日本の弱小軍隊が大国に勝利するために探るべき戦術の模範例として書かれており、士官養成用の戦史研究書である。#信長

6 谷間の低地で休息していた今川の大軍に対し、雨中、山の中を迂回して進んだ信長軍が、山を下って大軍に突入し、少数の手勢で打ち負かすというストーリーで、日本人好みのお話ゆえ、小説や大河ドラマで繰り返し採用されて、史実と思われてきた。40年ほど前まで誰も疑わなかったのである。#信長

7 明治の陸軍説が出した「迂回奇襲」説は、江戸時代に、東海道沿いの現・豊明市栄町南館11に「桶狭間古戦場伝説地」が作られたことが影響していると思われる。この場所はまさに山の谷間の低地で、ここに義元がいたとすると、山を下って奇襲するというのは理にかなっているからだ。#信長

8 桶狭間古戦場伝説地は国道1号線(旧東海道)沿いにあり、名鉄電車の駅も近く、今も訪れる人は多い。街道沿いだった江戸時代も同様で、極論を言えば東海道沿いの観光地(遥拝所)として設定されたと思われる。実際の古戦場までは、街道から遠いため、ここで合戦を偲んだのだろう。#信長

9 何より桶狭間の戦いの当時は、まだ東海道は存在していなかった。閑道(脇の道・抜け道・近道)こそあったと思われるが、大軍が通れるような道ではない。また現在、江戸時代の古い町並みが残る有松宿もこの当時は存在していない。そうした道路事情を知ることもこの戦いを理解するのに役立つ。#信長 #信長公記 #桶狭間

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