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10年の時が経っても、新しく登場した説は「新解釈・桶狭間の戦い」だけ

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10年前に出た雑誌『歴史街道』6月号が「桶狭間の謎」として特集を組んでいました。当時ちょうど450年ということで、50ページあまりの大特集。巻頭では「窪地の義元を奇襲攻撃はよく知られている。しかし信長公記に従うとそれはおおきく覆える」として知られ始めた正面攻撃説をベースに真相を探るとします。

掲載された戦場のイラスト俯瞰図は、海岸線と道がきちんと書かれた画期的なものでしたが、これは桶狭間古戦場保存会が協力したことでできたもののようです。さらに現在の地図に当時の海岸線などをイラストで重ねた広域の地図もあり、この2枚の地図は今でも売っていただきたいほどの出来です。

とはいえ、新解釈で述べた小川道や漆山、また正光寺砦や氷上山砦の表記がないのは残念なところですが、これは桶狭間古戦場保存会の故梶野渡先生がネタ元ですから仕方ないところ。それでも沓掛城から東浦街道を南に進み、大脇村で右に折れて大高道を進むと桶狭間に達し、更に進めば大高城へ着くということがよくわかる素晴らしい地図です。

この『歴史街道』2010年6月号では「信長の攻撃ルートなど不明点だらけで、研究者の間でも意見がわかれる」として戦国史研究家谷口克広氏1943年生、歴史作家桐野作人氏1954年生、桶狭間の郷土史研究家梶野渡氏1919年生(古戦場保存会)、大御所小和田哲男氏1944生という先生方の意見が一覧表になって書かれています。

それから10年の年月が経っているわけですが、これらの方から特に新たに解明されたという話は出ていません。かぎや散人氏が提唱している「新解釈・桶狭間の戦い」だけがこの10年で登場した全く新しい説といえるでしょう。

●信長の兵力は2千弱、義元の戦闘員は数千人程度と拮抗(新解釈)

そこで10年前のそれぞれのQ&Aを見ていきます。まず兵力です。谷口氏「信長2千でほぼ戦闘員、今川2.5万でも8割が非戦闘員」、桐野氏「信長2千で総計数千、今川4.5万はやや過大か」、梶野氏「信長5,6千(本隊2千)、今川2万(本陣5千)」、小和田氏「信長6千(本隊精鋭2千)、今川2.5万で9割が農民兵」としています。

信長公記『天理本』に信長は人数を多く見せるため熱田などの町人を旗持ちで連れてきており、移動する時にも兵力は2千に満たなかったと書かれています。今川も万単位の戦闘員を動員できるはずもなく、数千人の戦闘員であったと新解釈では考えます。信長公記の4万5千はどう考えても盛りすぎでしょう。今川の数を多く見せて信長を讃えようという意図が感じられます。

●実は義元の方が劣勢で、大高城を助けるための出陣(新解釈)

義元の出陣目的というQでは、谷口氏「愛知郡周辺の領有。あわよくば清須城攻略し織田家を従属させる」、桐野氏「尾張平定と伊勢湾の制海権・交易圏の確保」、梶野氏「大高・鳴海地区の安定、伊勢湾航路の確保、状況次第で清須城占拠と尾張掌握」、小和田氏「尾張制圧」としており誰も上洛を目的としていません。それでもほとんど全員が、あわよくば清須を攻めて尾張を掌握しようとしていた、と10年前は考えていたようです。

これは尾三国境での争いは今川方が優勢であったと考えられていたからでしょう。しかし信長は、笠寺界隈をすでに取り返し、三河高橋郡ヘも桶狭間前年の4月に侵攻していると考えます。通説のように桶狭間翌年4月だとすると、信長が攻めて来ているのに同じ4月に松平元康が東三河遠征を行うことはありえない。信長自身も桶狭間の翌年は美濃や犬山に手を焼いていました。このように義元の桶狭間出陣は、劣勢の中、大高城を封鎖する付城排除が目的だったと考えられます。

●戦い前に信長をヨイショした梁田出羽守(新解釈)

そして戦功第一とされた梁田出羽守の活躍について、谷口氏「ない。あったとしても中島で信長に出陣を促した程度」、桐野氏「不明。義元本陣を探る活動があったかも」、梶野氏「あった。戦後沓掛を受領している」、小和田氏「あった。沓掛の地侍で地理に精通」とします。

『甫庵信長記』では「梁田出羽守進み出でゝ、仰せ最も然るべく候。敵は今朝鷲津丸根を攻めて、その陣を易ふべからず。然れば此の分にてかからせ給へば、敵の後陣は先陣なり。是れは後陣へ懸かり合ふ間、必ず大将を討つことも候はん。唯急がせ給へと申し上げゝれば、」と書かれています。

これを読む限り「敵の後陣は先陣なり」と敵が繰退中であることを言い、本当の後陣を攻撃すれば大将を討てると言っています。信長はこのあと「殊勝なことを言うやつだ」とほめていますが、梁田が情報収集活動をしているようには読めません。『甫庵太閤記』ではこの話が「梁田が能言(よきこと)を言ったので、戦後に沓掛をもらった。毛利新助の方が少なかった」と書かれますが、これはその通りにすぎないのですが、「敵の後陣は先陣なり」という内容が理解できなかった人によって、情報活動をしていたなどと尾ひれのついた話になったのでしょう。梁田が沓掛をもらったことはかなり確率の高い話のようです。

●佐々・千秋は敵を逃すまいと仕掛けたが返り討ちに(新解釈)

佐々・千秋が今川軍を攻撃した目的に関しても様々な説があります。谷口氏「抜け駆け。信長が加わることを期待したか」、桐野氏「抜け駆け。信長の前で功名を狙った」、梶野氏「今川前衛の注意を奪うため」、小和田氏「信長本隊の動きを秘匿する陽動作戦」とします。しかし新解釈では、信長が着いたので撤退する隊列を逃すまいと攻撃をかけ、反撃された、とします。

『天理本』には前夜に信長が「ぜひとも国境で一戦を交えたい」と述べたことが書かれていますが、佐々・千秋はこの信長の意思を踏まえて、逃してはならずと挑んだのでしょう。二人は中島砦から出撃し、地元の伝承では「母呂後(鳴海町母呂後)」で戦ったと伝わります。漆山の北西500m、中島砦の南西200mほどの場所で、正面攻撃説だと今川前衛がこの辺りまで展開していたことになり、そうであればその後、信長が山際まで敵とぶつかることなく進むことなどありえないでしょう。撤退してしまっていたので、敵に会わずに山際まで進めたのです。

●10年前も今も、正面攻撃説が主流だが、正面からでは大将は討ち取れない(新解釈)

4人の研究者は「攻撃は迂回か、正面か?」にも答えています。谷口克広氏「正面」、桐野作人氏「従来の迂回・正面とも異なる側面強襲」、梶野渡氏「中島から山間を通っての正面」、小和田哲男氏「正面奇襲」です。

10年前は正面攻撃説全盛で、迂回奇襲説は完全に力を失っていましたから、正面とするしかなかったでしょう。注目されるのは桐野氏で、新解釈にも近い側面強襲と言っています。他に『天理本』などを重視すべきという意見も述べています。ただ具体的にどうだったのかまでは言及されていません。

新解釈では雨に紛れて側面まで移動し、そこから義元右翼を強襲(奇襲)し、さらに矛先を東に向け正面からぶつかっています。その意味では迂回とも正面ともいえます。まともに正面攻撃して数にまさる敵を撃破し、大将の義元を討ち取れるはずもありません。

●義元が討ち取られた場所は、山頂付近。多くの兵は古戦場公園あたり(新解釈)

おけはざま山と討死地に関してのQでは、谷口克広氏「ともに不明。山は沓掛と中島砦を結ぶ峡間の南の丘陵地か。討死は東海道沿い」、桐野作人氏「ともに不明。討死は伝承を重視すれば豊明の古戦場跡か」、梶野渡氏「桶狭間の標高64.7m地点から西100mの中腹。討死は桶狭間古戦場公園」、小和田哲男氏「桶狭間の標高64.7mの丘陵地一帯。討死は田楽坪付近」とします。谷口氏のおけはざま山は現東海道の南のどこかということでしょうか。討死は谷口・桐野氏は豊明、梶野・小和田氏は緑区桶狭間となります。

新解釈では標高64.7m(64.9mだと思われる)の山の山頂とします。またそもそも東海道の存在を認めていませんから、豊明古戦場が討死地とは考えられません。また藪に阻まれて義元は攻撃を防ぎながら山を下りることができなかったと考えますので、討死は山頂の本陣付近のやや南あたりとしています。

●信長が勝ったのは情報戦ではなく、戦術眼の鋭さ(新解釈)

信長の勝因に関しては谷口克広氏「1馬廻りの活躍 2今川前衛を破って勢いがついた 3天候急変の運の良さ」、桐野作人氏「1攻撃直前の雹が僥倖 2合戦の常道から逸脱した旗本勢による突出が今川の意表を突いた」、梶野渡氏「1天候急変(落雷を恐れ武器を手放す) 2梁田の情報で本陣場所をつかんでいた」、小和田哲男氏「1今川に油断があったことは否めない 2信長は情報戦略だけでなく味方を鼓舞するのもうまかった」としています。

新解釈では信長の勝因を、折からの激しい風雨を勝機と判断し、今川殿軍を攻撃することなく、有松地峡の原初東海道へ兵を導き、気づかれないよう「迂回した奇襲」作戦へと舵を切った信長の戦術眼の鋭さとします。むろん天候急変がなければこのような勝利はなかったわけで、天候が勝因であることも間違いないでしょう。

●信長公記の方向表記に関しては大まかなものに過ぎない(新解釈)

最後は他に重要だと考える論点はというQです。谷口克広氏は「1一般のイメージより、両軍の兵力差はないこと 2織田軍馬廻の精強さはより知られるべき 3信長は山を攻め上ったというが、それは絶対に不可能だろう」とします。兵力差・馬廻りの強さに関しては同意ですが、なぜ山を攻め上ったことを不可能とするのかよくわかりません。義元本陣地を不明とし、討死地を東海道沿いとされますので、やはり豊明の低地にいたと思われているのかも。

桐野作人氏は「『信長公記』に記された方位・方角を再検討すべき。情報量がより多い首巻(天理本や五島美術館本など)をテキストとして重視すべきだろう」とします。天理本をベースに新解釈を出したかぎや散人氏は方角に関して検証していますので、次に書いてみます。

※かぎや散人「信長公記の方向表記について」
『陽明文庫本』『天理本』の首巻に出てくる方角を示す言葉全部を検証してみたが、記された方向は正確な方位ではなく、二分法によった大まかなものであり、「東側」とか「右手」といった意味でしか用いられていないことがわかった。

また十二支を用いた十二方位も正しく用いているわけではない。そもそも『首巻』での使用例は戌亥(北西)と辰巳(南東)の二つしかない。そこで『首巻』に登場する方角の記載20事例を検証してみた。すると正確と思われるのは9件、間違いが明らかなのが4件、判定不能が7件となった。

正しいとみなせるのは「五月十九日午刻戌亥に向て段々に人数を備、鷲津・丸根両城を攻落し、満足不可過之とて謡を三番うたハせられたる由候」で、義元本陣が桶狭間村方面にあると仮定するならば、そこから善照寺砦は北西にあるので、正しい方位表示だと認めて差し支えないだろう。

正しくないとみなせる方位例は『陽明文庫本』の「辰尅に源太夫殿のまへより東をご覧じ候ヘハ、鷲津・丸根落去…」の部分で、源太夫宮から鷲津・丸根は南南東であるから大きく違う。したがって『信長公記』記載の方向を根拠として合戦の経過を考えていくのは危険だ。多くの研究者はこの首巻が書く方向に振り回されているが、方向に関しては地形を考慮して補完しなければならないだろう。

ちなみに首巻に書かれている距離についても調べてみると、いずれも距離の起点は「信長のいる地点」で「信長のいる地点からの距離」として書かれている。つまり、信長のいた地点がわかれば書かれた距離の検証が可能だが、それが記述されていない場合は、首巻の表記した距離の正確さは確証を得られないということになる。これも注意する必要があるだろう。

●江戸初期に書かれた信長公記『天理本』を中心とし、同時代に書かれた『三河物語』『甫庵信長記』を参考に考えるべき(新解釈)

梶野渡氏は「今川前衛軍が陣した高根山・幕山・巻山と、義元本陣のおけはざま山の間は、当時池や沼が点在し、深田が広がっており、これが前衛部隊による救援を困難にした」と。また小和田哲男氏は「1『信長公記』は基本とすべき史料だが、それ以外の資料にも目を向けるべき 2織田・今川軍の国力・兵力差は一般のイメージほど大きくない」と。

桶狭間の地元説では高根山はもちろん、その南の幕山、さらに南の巻山にも今川前衛軍がいたとします。撤退中とする新解釈では居たとはしません。『信長公記』にもそうした記述はありませんし。また江戸時代も中期以降のものはそもそも伝説地を討死場所としています。使えば混乱するばかりです。まだ戦いの記憶の残る人が生きている江戸初期に書かれた信長公記『天理本』を中心とし、同時代に書かれた『三河物語』『甫庵信長記』を参考に考えるべきでしょう。そして10年後の今、桶狭間の戦いの新解釈として言えることは「大高城から撤退している途中、天候の急変で隙を突かれて義元は敗れた」ということになります。

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