桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その13

いよいよ信長が登場します。「麒麟がくる」にリンクしました。

84 西三河一帯を失った信秀は病に倒れ、天文十九年(1550)には今川方は知多郡、尾張山田郡の一部まで侵攻した。しかしこの年に後奈良天皇から和睦勧告がでて、これによって十二月に今川はいったん尾張から撤退することになった。#信長 #信長公記 #桶狭間

85 今川撤退三ヶ月後の天文20年(1551)3月に織田信秀は四十二歳という若さで病死(異説あり)。これに動揺した尾張・三河国境の鳴海城主・山口教継が、同じく国境の沓掛城主・近藤春景を誘って今川方に帰順した。これが桶狭間の戦いの遠因となる。#信長 #信長公記 #桶狭間

86 信秀の後を継いだ織田信長は、三の山(山王山)に鳴海城の付城(攻撃の拠点として敵城の近くに築いた城・砦)を築こうと兵を出し、それを阻止しようと出陣した山口教吉との間で赤塚合戦となった。しかし戦いは引き分けに終わった。#信長 #信長公記 #桶狭間

87 赤塚合戦のあと、信長は山王山に砦を築いたようだが、鳴海城を奪回することはできず、この後は桶狭間の戦いで勝利するまで、鳴海城は今川方の手にあった。東に6.5キロ離れた沓掛城も同様に今川方にあった。#信長 #信長公記 #桶狭間
 
88 今川の侵攻は続き、信秀亡き後も織田方に留まった緒川(小川道の小川・現東浦町)の水野信元に対し、2キロほど北側の村木に砦を築いた。ここは知多半島の東側の付け根に当たる場所で、衣が浦を隔てて対面に刈谷城があった。#信長 #信長公記 #桶狭間

89 今川方は村木砦からみて知多半島の反対側(西側)にある寺本城(知多市)の花井氏を取り込んで、半島を分断し信長と水野信元との分断を図った。信長は天文二十三年(1554)に暴風雨の中、船で知多半島に渡り、村木砦を奪還した。#信長 #信長公記 #桶

山王山から那古野城方面を望む現代の風景。素晴らしい眺望ゆえ、当時は城まで見渡せただろう

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?