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「山際まで敵に遭遇することなく進めた信長勢。正面攻撃説ではこれを説明できない」 桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その22

172 信長は中島砦から出撃すると、手越川沿いの北側にある鳴海~桶狭間道(旧東海道筋)を進撃して、高根山などの「山際」となる場所、すなわち手手越川を渡る鎌研橋あたりで、撤収を終え高根山の峠に陣どった今川の殿軍と対峙した。#信長 #信長公記 #桶狭間

173 今川の殿軍は、鎌研橋から旧東海道筋を離れて南東へ伸びる鳴海~桶狭間道(ここからは長坂道と呼ばれる)を遮断して、信長に備えていた。当時中島砦を出て南東の桶狭間村に向かう道はそれしかない。信長は姿を隠すため山間部へ分け入ったりしてはいないのだ。#信長 #信長公記 #桶狭間

174 いわゆる正面攻撃説では、戦場の過半を今川軍が占領しているとする。中島砦の南の丘陵(鷲津・丸根まで続く現在の青山)や、東の丘陵(平子ケ丘)も今川軍が占領していたとするが、「首巻」にはそうしたことを示唆する記述はないし、敵の存在に関して言及されていない。#信長 #信長公記 #桶狭間

175 中島砦から桶狭間村への道は一本だけだが、そこを進む信長勢が山際まで行く間、初戦に勝利し意気軒昂なはずの今川軍による東から、南からの攻撃はなく、それゆえ信長勢は山際まで何の問題もなく進出できた。これが正面攻撃説に疑問が生じる部分だ。#信長 #信長公記 #桶狭間

176 一方、義元自身はこの時すでに桶狭間村の64.9メートルの丘陵上に本陣を置いていたであろう。この丘陵はこの一体では最高峰ではあったが、高根山の陰にかくれて、北西方向の善照寺砦や、山際まで来ていた信長勢を見通すことはできなかった。#信長 #信長公記 #桶狭間

177 義元の本陣位置に関して根拠になる文献はないが、まず兵法の常識として、敵を前にして平地に本陣を置くことはない。義元は深田(現在は大池)を前にしてこれを掘りに見立て、それよりさらに北西の長坂道の、高根山の峠には先備を置いた。#信長 #信長公記 #桶狭間

178 先備えはすなわち殿軍でもあり、これらによって十分な防御陣地を敷いた。したがって本陣は桶狭間山の最高峰である64.9メートルの丘陵以外にありえない。ここまでの流れを知れば、豊明市の古戦場伝説地であるはずがないことはわかっていただけるだろう。#信長 #信長公記 #桶狭間

※写真は旧東海道・鎌研橋の手前。このあたりが山際だろう。

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