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「前線に着いた信長は、撤退する今川軍を見て正しく兵に訓示した」 桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その20

156 丹下砦を目指して信長は熱田を出るのだが、この時の伊勢湾の満潮時刻は午前八時となり、潮が引くと通れる鎌倉街道の下の道はその頃海没していて通れず、遠回りになる上の道を急ぐことになった。上の道も諸説あるが現在の元八事あたりで天白川を渡ったのではないか。#信長 #信長公記 #桶狭間

157 定説では今川方が信長の参陣を遅らせるために潮の満干を考慮したとされるが、それは違う。「首巻」には「東に見える南浜通の道は距離が近いのだが、ちょうど満潮で馬の通行もできなくなっていた。そこで鎌倉街道の上の道をもみにもんで馬を走らせ」とある。#信長 #信長公記 #桶狭間

158 潮が満ちていても信長の進軍そのものを止めることはできない。下の道が通れなくなるというだけであって、実際に信長は上の道を通り、急ぎに急いで戦場に向かった。丹下砦に寄り、砦の兵も引き連れて、善照寺砦に入り、諸方から集まってきた兵を勢揃いさせた。#信長 #信長公記 #桶狭間

159 信長は善照寺砦から南を眺めて戦況を観察したところ、後詰めが遅れたことで。今川勢は引き上げにかかっていた。敵の多くはまさに撤退中だったと考えるべきで、そうであればこの後信長が発した問題の訓示に矛盾はなくなる。#信長 #信長公記 #桶狭間

160 『三河物語』が信長が肉薄しつつある中で、未だに今川勢の殿軍が山上に残っていたと書いていることがそれを証明する。信長の訓示は通説がいうような信長の勘違いではない。そもそも信長の勘違いをわざわざここで書く必要はあるのだろうか。#信長 #信長公記 #桶狭間

161 善照寺砦で佐々・千秋の敗戦を見た信長は、中島砦へ移ると言い出した。家臣が馬のくつわの引手を持って、皆々が諌めたのだが信長はそれを振り切って中島砦へと移った。この時の兵力は2000に満たなかったという。信長はさらに中島砦からも出撃しようとした。#信長 #信長公記 #桶狭間

162 家老衆はすがりついて出陣を止めようとした。その時、信長が発したのが問題の訓示である。信長公記『天理本』では「皆よく聞くように。あそこに見える敵勢は、昨夜の夕方に飯を食べただけで、一晩かけて大高まで行軍して兵糧を入れたうえ、#信長 #信長公記 #桶狭間

163 今朝、鷲津・丸根という二つの城攻めを行って骨を折り、青息吐息で、くたびれている敵ではないか。味方はまだ一戦もしていない新手である。それだけではない、兵数が少ないからと言って大軍を恐れるな、運は天にある。#信長 #信長公記 #桶狭間

164 こんな戦訓を知らないか。味方が攻撃していけば敵は退く。敵がひいたらそれに付け込み、的に密着して離れるではない。かさにかかって攻め立てるのだ。そうすれば必ず敵をひねり倒し、おい崩すことができるのは言うまでもない。#信長 #信長公記 #桶狭間

165 一切分捕りをしてはならない。この戦いに勝ったならば、この場に参陣したものは家の名誉である。末代までも巧妙が鳴り響くのだ。ただただ各人、力をつくせ」と書かれている(現代語訳)。信長は今川方の状態を誤認などしてはいないのだ。#信長 #信長公記 #桶狭間

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