超社会性(Ultrasociety)、それから文化的マルチレベル選択理論についての概説

またもやPeter Turchinだ。

 ここでは異論の多い、文化的マルチレベル選択理論について、彼が何を言わんとしたかを詳しく説明していこうと思う。正直、読み返すまで僕も明晰な形で彼の主張を理解していなかった。
Ultrasocietyは彼の6番目の著書だ。2015年に出版された。翻訳はまだされていない。
 この本のキーワードは3つある。
 文化的進化
 文化的マルチレベル選択理論
 協力に対して戦争が果たした役割
 だ。
 

この3つのテーマが、下に示す一つの不等式を中心として語られる。
すなわち、下記の不等式を満たすとき、協力的な資質は、進化する。(その逆も然り。)

集団間分散/集団内分散 > 個人間の淘汰圧/集団間の淘汰圧


 しかしこれを見て、意味が分かる人は少ないだろう。
ゆえにターチンはこの等式に入る変数がどのようになると、どうなるかの具体例を文中で説明していく。氷河期の環境、ギアナ高地の部族(Mae enga)、中央ステップ地帯(ウクライナからモンゴルにかけて)での遊牧民と帝国の絶え間のない戦争、古代帝国の繁栄と衰退(エジプト、アッシリア)そして一神教の伝搬、エンロン、スポーツチームが彼が提示する例だ。

 ターチンはなぜ我々が、国際宇宙ステーションを成立させることができるのか、つまりロシアと米国を含む様々な国家が協力して一つのプロジェクトを行うことができたのか、それほど広範な協力関係はどのように築くことができたのかを問う。
 人類がどのような環境のもとで協力関係を進化させたのか、もしくは、利己的に進化していくのかに対する、データで反証可能な仮説を提示している本だ。そして事実、この本の中の主張の一つはデータによって反証された(一神論が出現して、共同体が大きくなったとターチンは主張したが、データによれば事実は共同体が大きくなった結果として一神教が出現した)
まず、文化的マルチレベル選択理論(Cultural Multilevel Selection Theory)について説明する。
まずこれは何なのか、について話す。

 日本語で言及されることが滅多にないこの理論は、デイヴィッド・スローン・ウィルソンが提唱した。しかし彼の著書はあまりにもなんというか楽観的で、本自体も厳密な論証ではない。

 文化的マルチレベル選択理論を使って上手くいった事例を多数示してはいる、わかりやすい本ではある。しかし多く投げかけられるマルチレベル選択理論への反論に対して十分答えられている本ではない。
 
 一方少なくともターチンは協力関係が進化する、つまり協力的な資質が選択されていく条件を上記の数式で提示しており、これは誤解の余地が少なく、また反証可能なものである。

 一言で言ってしまえば、マルチレベル選択説の基礎である2レベル選択説は、以下のようなものになる。
「グループ内では利己主義が利他主義を打ち負かす。利他的なグループは利己的なグループを打ち負かす。」
つまり
個人間の淘汰圧 > 集団間の淘汰圧 のとき、利己性が進化する。
集団間の淘汰圧 > 個人間の淘汰圧 のとき、利他性が進化する。

そして、これはさらなる階層、つまり家族から集落へ集落から都市へ、都市から国家へ、国家から国家共同体へ、国家共同体から世界へ…と拡張できるとするのがマルチレベル選択の理論だ。

 ターチンはもう少し堅実に、文化的マルチレベル選択理論について説明していく。
まず大前提として、これは人間の協力関係に関する理論だ。巨大な共同体を作るが、その成員が血縁から成り立つ社会性昆虫(ハチやアリ)の社会は、血縁淘汰で説明可能であり、これは反駁し難い。

 また、文化的マルチレベル選択説は群淘汰とも異なっている。群淘汰が成り立つのはごく限定的な条件だ。文化的マルチレベル選択説は、集団間の選択と個人間の選択、そのどちらも考慮する。
そして文化だ。文化的マルチレベル選択理論である。上述の不等式はプライス方程式であり、この式は協力関係に関与する資質が、遺伝子だったとしても、文化だったとしても、遺伝子と文化の組み合わせだったとしても成り立つ。そしてターチンは、そのメカニズムがなにか、という点に関しては明らかにしようとしていないというか、一つの要因とは考えていない。

  この、文化と遺伝に関するターチンの考えは以下の記事に詳しい。

「私が考えるに、集団淘汰メカニズムは、遺伝レベルと文化レベル双方で機能します。」上記記事より引用

文化的進化


 文化というのものは非常に多様に捉えられる。しかしターチンの理論の中心はあくまでも協力関係と、それに影響を与えるものだ。だから文化もそのような観点で捉える。
文化というのは世代を超えて受け継がれるものだ。それは食べられる食料であったり、道具の作り方であったり、歌や踊りや儀式であったりする。そして何よりも”考え”だ。

集団間分散/集団内分散 > 個人間の淘汰圧/集団間の淘汰圧

 そして上記の不等式を理解する上では、つまり協力関係の変化を理解する上では、文化というものは「一般的に見知らぬ誰かをどれくらい信じるか」という傾向と言い換えてしまえる。
その度合いは0か100かではない。見知らぬ誰かを常に信じるという人は多くはないだろう。しかし全く信じない、という人もそう多くはないはずだ。信じることの方が多いとか、信じないことのほうが多いという差はあるだろう。こういった、一般的信頼の傾向は、親から子へ受け継がれる傾向がある。遺伝子と違うのは、信頼するかしないかの二択ではなく、もっと微妙な傾向があることだ。

ここまでが文化的進化の話、すなわち、文化的マルチレベル選択理論(Cultural Multilevel Selection Theory)の「文化」の部分だ。

マルチレベル選択


 次に考えるのは、マルチレベル選択だ。
マルチレベル選択というのは、個人間でも選択が起こるし、集団間でも選択が起きる、つまり淘汰が起きるということだ。
つまり、一般的信頼は、選択圧によって高まることもあるし、低下することもある。個人間での選択圧が高ければ、一般的信頼は低下する傾向にあり、集団間での選択圧が(個人間での選択圧よりも)高ければ、一般的信頼は増加する傾向にある。
そしてここでターチンは、戦士の例を出す。勇敢な戦士は、敵と正面で戦うので、死亡する確率が高く、負傷する確率も高い。臆病な戦士は、危険が迫ると逃げ出すので、戦いで勝ったときには生き延びる確率が高い。一方で、戦い自体は、勇敢な戦士が多いほうが勝利しやすい。戦いに敗北すれば、勇敢な戦士も臆病な戦士も等しく命を失ったり、奴隷になったりする。
これを上記で示した不等式で示すと、

集団間分散/集団内分散 > 個人間の淘汰圧/集団間の淘汰圧

グループ間での淘汰圧が大きいとき、協力的な資質は進化しやすく、個人間での淘汰圧が高いとき、利己的な資質が進歩しやすい。
この不等式の左辺を1に置き換えてみて、両辺にグループ間での淘汰圧をかけると
集団間淘汰圧 > 個人間淘汰圧
になる。
これを満たすとき、協力関係は進化する。
これを平和な時期には利己的な個体が増え、戦争で利己的な個体が多いグループが淘汰される、というモデルを作って彼は説明していく。これをブログの記事で説明するのは難しい。

もっと具体的な社会の例にうつろう。
まずはギニア高地のMae Engaだ。この部族はニューギニアの高地に住んでおり、それぞれが300-400人の部族からなる。彼らは絶えず戦争を行っている。戦争は頻度が多く、残酷で、敗北した場合は命を失うことが多い。実際、1/3の成人は戦傷で死亡する。
では彼らは大規模な協力の資質を進化させることができたのだろうか。
そうではない。
さて、不等式に戻ろう。

集団間分散/集団内分散 > 個人間の淘汰圧/集団間の淘汰圧

 Mae Engaは集団間分散が極めて小さい。彼らは同じ武器を用いて、同じ作物を育て、同じ文化のもとで生きている。故に集団間の淘汰圧が大きくても、協力関係が拡大することはなかった。

 次にエンロンに移ろう。エンロンはかつて米国に存在した企業だ。
この企業には次ようなルールがあった。成績が下位の10%を毎年解雇する。成績上位者に高い金銭的報酬を与える。
結果として、利己的なプレイヤーが増え、相互不信の状況が生まれた。

集団間分散/集団内分散 > 個人間の淘汰圧/集団間の淘汰圧
これは、上記の不等式で、個人間の淘汰圧が極めて大きかった例になる。

 さて、この考え方をもとに、人類の協力関係がジグザグに進化したことが以下のように説明される。

協力に対して戦争が果たした役割


 もともとは不平等だった類人猿の社会が、平等主義的な狩猟採集社会を形成する人類となって、その後残虐な神を自称する専制君主に支配される古代帝国が生まれ、さらにそこから現代の福祉国家が生まれた。

 類人猿の社会は極めて不平等だ。例えばゴリラのオスはハーレムを作る。多くのオスは独身のまま死ぬ。男女差別がある。しかし人類は、投擲武器を手にすることで強者を罰する手段を手に入れた。遠距離から攻撃することは複数人で可能である。そして大型の動物(例えばマンモス)を狩るのは一人では困難、ないし不可能だが、複数人で協力すれば可能であった。

 さらに地球の気候が変動したことで、集団への淘汰圧がかかった。そう、戦争だけではなくて、環境の厳しさや災害も、集団への淘汰圧となるのだ。そしてそのような圧がかかり続けた結果、集団間での選択圧が高まり、平等主義で協力的な狩猟民族社会が生まれた。
 その後、大規模な協力関係が生まれ、大規模な協力関係が生まれたことから、所有権を一斉に認めることが可能となって、農業・農村が生まれた。農業が人々を食べる作物の種類の少なさや、人口密度が高まることによる感染症、寄生虫などによって不健康になるにも関わらず広まった理由としては、大規模な集団を作ることが戦闘での優位に働いたからだ。そして一度農業と所有権が生まれると、マタイ効果によって豊かな人々はますます豊かになり、貧しい人々はますます貧しくなる。その中で圧倒的に豊かな人間が多くを支配するようになる。支配権を強めるために自らを神と称する王が生まれる。古代の神格化された王は残虐さを誇る。そして不平等な社会は、協力関係を築くことが難しくなる。(これはグループ内の分散、と呼び替えることができるかもしれない。)しかし規模が大きいことで多くの戦士を擁することで生き延びる。

 ここで話は馬に変わる。馬は非常に強力な兵器だった。それはカザフスタンで生まれた。馬があることで攻撃に有利な状況が生まれた。遊牧民は国家を略奪することができた。歩兵が防衛にやってきても、撤退して別の手薄な都市を攻撃することができた。そして馬を育てるのに適した環境は中央ステップであり、ここで戦争は激しさを増した。戦争に勝つために、馬を育てるのが難しく、ステップの脅威にさらされる領域では、より多くの兵士を養う必要が生まれた。そのために大規模な社会を発展させ、維持するための仕組みが発達していった。それが社会制度であり、平等を意図しようとする王であり、一神教であり官僚制である。
 こういったシステムは中央ステップ地帯と接触する領域で生まれた。中国、中東などである。

 つまり、人類の協力関係は必ずしも一方向に進化したわけではない。
人類の協力関係を強化する要因があり、利己的にさせる要因もあるというのがターチンが伝えたいことである。ただ黙って時計の針を進めれば人類は協力的になる、というわけではないのだ。
 文化的マルチレベル選択説への反論は幾つかある。それにターチンの主張を踏まえて反論していこう。

  1. マルチレベル選択理論は群淘汰理論であり、群淘汰は稀な状況でしか成り立たないことが示されている。

これに対する反論としては、文化、そして人間を対象としていること、個人の淘汰を否定しておらず、群淘汰からはあくまでも影響を受けた理論に過ぎない、と反論することができる。

  1. マルチレベル選択理論ではなく、合理的互恵主義や血縁淘汰で、人間の協力関係は説明できる。

そうだろうか。リチャード・ドーキンスは「神は妄想である」の中で次のように書いている。

泣いている不幸な人を見たときに、私たちは、異性の誰かを見たときに欲情を感じるのを抑えられないのと同じように、哀れみを感じるのを抑えることができないのだ。どちらもメカニズムの誤作動で、ダーウィン主義的には誤りである。だが、悦ばしく、貴重な誤りである。 リチャード・ドーキンス「神は妄想である」p323
また彼は遺伝子浮動、つまり偶然によって協力関係が生まれた可能性も示唆している。

 しかし、説明可能である、というのはそれほど大事なことだろうか。人間は後付けで立派な講釈ができることは(そして、その立派な講釈はしばしば有益でないことは)、カール・ポパー、ナシーム・ニコラス・タレブなどが良く論証している。
ターチンはこう書いている。

What’s important is not that one’s ideas are correct, but that they are productive. Productive ideas lead to new theories and hypotheses that can be confronted with data. Data destroy some hypotheses and force us to modify others.
ある考えが正しいか、というのは重要ではない。しかし、ある考えが生産的かどうかは重要だ。
生産的なアイデアは、新しい理論を導き、データによって検証できる仮説を導くことができる。
データは仮説を叩きのめし、仮説を修正するよう強いる。(私訳)

 これこそが重要な点だ。偶然や副産物が協力を生み出す要素であると考えたときに、どのように生産的な仮説が生まれるだろうか。生まれないのだ。


 やたら戦争について書いてある本なのだが、最後にもう少し優しい話もしている。
戦争は第二次世界大戦までは本当の戦争の形をとっていた。しかし冷戦では、生活水準の戦いとなり(故に生活水準を十分高めることができなかったソ連は瓦解した)、現代ではアイデアの戦いになっている、と。
アイデアの一例として、彼は一夫多妻制と一夫一妻制を比べている。また一夫多妻制が多く残っているのは熱帯の途上国だが、この地域で一夫一妻制となっている地域はGDPが一夫多妻制が合法な国家の3倍になる。
そして日本が明治維新で、欧米の経済制度を模倣し、服装を模倣し、教育制度を模倣し、婚姻制度を模倣、すなわち一夫多妻制を禁じたことを書く。
ここで言えるのは、単に劣ったアイデアを持つ集団が滅びるのではなく、優れた文化を模倣することで生き延びる方法もあるということだ。

 そして現代は直接的な闘争ではなく、アイデアの競争となっている。
これから人類は協力的な関係を作り出すことができるのだろうか、そのための条件はなんだろうか。文化的な進化で協力関係を高める方向に移行するためには何が必要なのだろうか。
それに対して、ターチンはまず仮説の検証が可能なデータベースを作って、今まで生まれてきた理論をテストすることが重要である、書いてこの本を終える。
 実際、彼が作っているSeshat databaseは現在も構築中で、拡大されている。その一部はcrisisDBとして、END TIMESでも引用されていた。

 僕としては文化的マルチレベル選択理論は、4つの変数が協力関係の向上もしくは低下に関与する、という仮説を呈した点が重要だと考える。
これは疑いようもなく生産的な仮説である。少なくとも、歴史的な例から反例を見つけることはできるし、この理論に従って協力関係が高まると仮定して組織を作ることもできる。組織というのは国家に限らず、スポーツチームや、会社や、部活その他でも同じことが言えるだろう。

 最後に文化的マルチレベル選択理論についてのよくある疑問点についてQ&Aを付け足しておく。

Q. アリの大規模な協力行動に関しては血縁淘汰、ないし互恵的合理主義で説明可能である。なので人間も同様に説明できるのでは?

A. 文化的マルチレベル選択理論は、人間の文化的進化に関する理論である。他の動物に関する理論ではない。アリの集団は言うなれば全員が親戚同士である。人間の集団はそうではない。


Q.遺伝子は人類の短い歴史で進化するものではないので、古いシステムを用いているはずでは?

A.文化的進化の要素が大きいと思われる。そして文化は、遺伝子に比べれば短い歴史で変化していく。


Q.マルチレベル選択理論は集団淘汰のことですね、集団淘汰はごく一部の条件でしか成り立たないことが示されていますよ。

A.マルチレベル選択理論は集団淘汰ではない。また、プライス不等式によれば、利己的な個体が選択される状況はありえる。