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はじめてのギャラは500円でした(12)

学校というのは偉いところで、そこに所属していると
いつの間にか互いに異なる要素というのはあまりアピールしなくなり
圧倒的な共通項を前提として微細な差異を光らせるような形に、
次第と移行していきます。

ダンススクールもそうだったし、コピーライター養成講座でも同じでした。

当初は「若い子ばっかり」に見えていたクラスでしたが、
誰々さん、誰々くんと、銘々が固有名詞を持って意識できるようになって
通うのが楽しくなってきました。

特に、わたしは、金エンピツのおかげで毎回名前を呼ばれていたので、
クラスのほとんどの人が、お話したことがなくても、わたしを知ってくれていました。
おかげで、後半は、終了後の講師との飲み会などにも参加したり、
楽に通うことができるようになってきました。


Hちゃんは、わたしと同じく、毎回最前列か二列目の真ん中に席を取っていました。

わたしより少し年下。物おじしない性格で、明るく社交的。
いわゆる「イイコちゃん」というのではなく、芯からの「いい人」でした。
無口で取っ付きにくいわたしが、人に話しかけてもらえるようになったのは、隣にいつもHちゃんがいてくれたからかもしれません。


そんなHちゃんが制作会社にお勤めだと知ったのは、
全40回の講座が終盤に入ってからでした。

社長秘書だと聞いていましたが、ほぼ全員がクリエイティブの会社の中で
経理、総務、庶務、営業事務など、人事以外のバックオフィス業務一切を
一人で取り回しているようでした。

そして・・・

何のきっかけでその話が始まったのか、今となっては
もう全然思い出せないけれど。
そのとき、Hちゃんは、珍しく、ちょっと愚痴るような口調で、
会社で人が足りなくて困っていると言っていました。

当時の世の中は、Windous95が世界的な大ヒットとなって、
ワープロにガラパゴス化していた日本でも、いよいよ
オフィスシーンにパーソナルコンピュータが標準装備され始めていたところでした。

そして。

ポケベルから携帯電話への移行に少し遅れるようにして、
パソコン通信から、インターネットへ。


Hちゃんの会社は、その、まさにパンパンで今にも開きそうに膨らんだ
大輪の花のつぼみのポジションで・・

つまり、世間で聞き始めたばかりの「IT」という名のジャンルでの
デジタル媒体、紙媒体の制作をしている会社だったのです。

MacでDTPはしていたけれども、パソコンというもの自体には
当時ほとんど興味のない、わたしでした。

会社でも、マシントラブルが起きれば(当時はよくフリーズしましたが)
詳しい男性の先輩に、丸投げ。
電子レンジを「このボタンを押せば温まるのね」と理解する程度の
家電レベルの使い方でしか、パソコンのこともITのことも、知らずにいました。

自分には、関係ないと思っていました。


でも。

そのとき、ふと聞いてみたんです。
具体的には、どんなことで人が足りないの?って。


「ムックなんだけどね。
ギリギリになりすぎて、ちゃんとした原稿が出るまで待ててないみたいで。
最後はいつもライターから来た原稿を社員が書き直すことになっちゃって。
で、そのあとのことも全部押せ押せで。回ってないんだよねー」


あらまあ・・・
それは、大変だぁ・・・


バックオフィス一切を引き受けているHちゃんからすると、
ライターに支払いをしてるのに、社員が再び同じ仕事をしているというのが
一番許せないポイントに感じているようでした。


でも、わたしは。

Hちゃんとは少し、違ったところが気にかかりました。


その日の講義は、まるで頭に入りませんでした。

ある場面がずっと、わたしの頭の中で再生され続けていたからです。



・・・え? 
講義を引き算?? 

で。続く!

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