禍話:ハコソの家


 Aさんが副担任として赴任したのは、とある田舎の学校だった。

 しばらく過ごしているとわかることなのだが、田舎特有の閉鎖的で理不尽な力関係がそこでも蔓延っており、彼女のクラスでも如何にも権力者の娘といった子どもが幅を利かせていた。なにか気に入らないことがあると、手を出す、口をだす、足も出る。暴れ出したり、物を投げ出す始末だったが、親が相当の権力をこの町で持っているらしく、誰も無闇に対処できないでいるようであった。
 とりわけその娘にいじめられている少女がいて、Aさんも心苦しく思っており、ふたりで話す機会をもうけると、彼女は奇妙な物言いをした。
「あそこ、ハコソの家だから」
「え?」
「ハコソの家」
 その聞き覚えのない言葉をAさんは地元の商売か何かだと思った。父親の会社の付き合いで抵抗できないのだろうとも。
「この町でどうにもできなくても、県の教育委員会だとか、もっと大きなところに相談もできるのよ」
「先生は知らないから言えるんだよ。あそこには逆らわないほうがいい」
 しょうがないの、と少女は諦めたように、そしてどこか怯えたように言った。

 そうは言ってもいじめは益々酷くなる一方で、まわりの先生方も手を持て余しぎみで静観するばかりだったので、Aさんは我慢ならず遂には行動に打って出ることにした。彼女は普段は穏やかで優しい女性なのだが、芯は強く人一番、正義感が強かったのだ。どうせ、この学校にもそう長くはいない。あと数年もすればまた別の土地に赴任することになる。そういう考えもあり、Aさんはいじめている子の両親を呼んで、彼女が学校でしている悪事を一つ残らず語り、フォローも入れつつ注意をした。そのとき、周囲が驚くほど弁が立ったそうだ。
 後日、職員室はその話題でもちきりであった。皆、感心しながらも、少しばかり過剰だと思うほどにAさんを心配している。
「大丈夫ですか。あそこ、ハコソの家なんですよ」
 妙に声を潜めて、しかしはっきりとした発音でその言葉を口にする。これ以上恐ろしいことはないといった感じに。
「ハコソ、ハコソって皆さんおっしゃいますが、ハコソってなんなんですか」
 周囲は目を丸くして、そこではじめて得心がいったように頷きあった。ああ、Aさんは都会から来ているから知らないんですね、と。
「あそこねぇ、箱があるんです」
「箱?」
「あの家、地主だとか実業家だとか、お金を持っているから恐れられているんではないんです。権力者ではあるんですけどね」
 あそこを怒らせると、酷い目にあうんですよ、事故とか、と淡々とした様子でいった。
「えっと、もしかして、憑き物的なものですか、オサキとか」
「似たようなものですかねぇ。この時期だけなんですが。あの家には蔵があってね、古い、それこそ江戸時代くらいからあるような、その2階にあがると箱があるんです」
「箱……」
「ええ、箱です。普段は2階にはあがれないそうで。まあ、その家の人以外誰も見たことはありません。その箱は目安箱のように投函できて、家の者が〇〇家の〇〇という奴に傷つけられたので酷い目あわせてください、とつぶさに書いた紙を入れるんです。箱に訴える、箱訴の家なんです」
 馬鹿馬鹿しい、と思わなかったと言えば嘘になる。しかし、周囲はいたって真剣であった。正直、Aさんにとってはその盲信じみた民間信仰的雰囲気の方が気味悪く感じていた。
「多分、あなたも……」
 ハコソされてますよ、恐怖と憐憫とが入り混じった視線がただ、Aさんを囲うように漂っていた。

 Aさんがハコソの家にしたことは、生徒間にも当然、広まっていた。いじめられていた少女も、Aさんを心配して彼女のもとにやってきた。
「先生、最近ものがなくなってない?」
 そういえば、とロッカーに置いてあったシャツがなくなっていることを伝えると、彼女はただでさえ白い肌をさらに青白くさせた。
「それ、家に持ってかれてるんだよ。より識別できるから」
 先生、ハコソされちゃうよ、私のせいで、と申し訳なさそうに言った。
 またあるとき、Aさんの飲みかけのペットボトルがなくなっていたことがあった。
「それ、あの家のやつだよ。唾液が入ってるから」
と別の生徒は言った。
「少し前はリコーダーとかを使ってたらしい。取られた子はアキレス腱切っちゃったって。本当は足なくなれくらい思ってたらしいけど」
 だいたいお願いしたことの半分くらいになるんだな、と冷静にそんなことをAさんは考えた。自分の飲みかけのものを盗むなんて、と生理的嫌悪だけがあった。

 Aさんは学校と下宿先を車で往復していた。その日は採点や事務作業が立て込んでいて、帰宅がいつもより遅くなってしまった。とはいっても19時ぐらいであったが、周辺に明かりはほとんど無い。早すぎる夜闇が町中を真っ黒に染め上げていた。
 ラジオを聴きながら、車を走らせていると、音の合間からブツブツと呟くような声がまぎれているような気がする。混信かしら、と思っていると不意に漠然とした違和感を感じて、バックミラーを覗いて背後を見た。後部座席に見知らぬ誰かがいる。ぼんやりと影がかかったように、もしくは影そのもののように輪郭すら曖昧だが、確かに何かがいる。
 すると、その何かはAさんに覆い被ってくるではないか。危ない! ととっさに彼女はハンドルをきって、そのまま路肩に追突してしまった。
 幸いAさんは軽く打った程度の自損事故で済み、数日、その地域の病院に入院することとなった。
 学校の先生方も見舞いにきてくれたが、これで済めばいいけど、と不穏なことを言う。どうもこの地域を出れば問題ないらしく、一時的にここを離れてみては、とも提案された。
 もちろん、彼らには車の後部座席に誰かいたことなど伝える気にはならなかった。
「大丈夫ですよ。気にしないと言ってたけど、どこか変に意識してしまったので、事故にあっただけです。迷信ですよ」
 Aさんは気丈に振る舞い、彼らの提案と不安を突っぱねた。

 その夜は静かだった。
 この田舎に赴任してから静かではない夜の方が少なかったが、それでも病院という場所のせいか、異様に息の詰まるような静寂が肌を撫でていた。
 Aさんは打ったところがひどく痛み、生まれてはじめて強めの痛み止めを処方してもらっていたので、覚醒と睡眠のあわいを行ったり来たりしていた。思考はふわふわ鈍っているのに感覚は妙に冴えている気がする、そんな不思議な心地であった。
 どれくらいその状態でいたのかわからないが、ぺたぺたと裸足で歩くような微かな音がAさんの鼓膜を震わせた。ぺたぺた、ぺたぺた。遠かったその足音はだんだんと近づいてくる。それから自分の部屋の前で止まり、ドアが開く音もせずに、室内まで入ってきた。
 コンタクトを外してある不明瞭な視界でははっきりと確認できないが、足もとの方に誰かが立っているようだ。難しい言葉で何か言っている。日本語だが、ずいぶんと古めかしい言い回しでAさんにはさっぱり理解できなかった。若い女性らしい声色だった。
 やがて、人影は枕もとまできて、ベッドの手すりに手をかけた。女性にしては毛深く、力強いなぁ、と暗闇に浮かぶ腕を見てAさんは思った。人影は何も言わずじっとそこにいた。ややあって彼女はそれの視線が、見舞いの品の桃やみかんの缶詰めに合っているのだと悟った。あんまりに物欲しそうに見ているので、思わず、どうぞ、と口にしてしまった。とくに食欲も湧いてこないし、食べたい人が食べたらいいだろう。
 すると、人影は、本当にいいのか、という旨を堅苦しいニュアンスで言ってくる。お前は私の役割を知ったら、そんなことは言えんぞ、と。
「別に桃缶ぐらいいいですよ、どうぞ」
 若干呂律の回らない舌でそう答えると、そうか、と人影は桃缶を食いはじめた。それが大分汚い食べ方で、ずるる、ずるる、と獣でももっと上手く食べれるだろうという具合なのである。
「もうひとつの缶もいいのか」
「どうぞ、ご自由に」
 ずるる、ずるる、とみかんの缶詰めの方も食べはじめた。しばらくして食べ終わると立ち去らず、人影は腕を組んでなにやら考え事をしてるようだった。
「もうないですよ」
「ここまでされたら、私はもうお前に悪いことはできん。恩ができてしまった」
「そうですか」
「そもそも、礼がない、あの家は。昔は覚悟と責任があったというのに」
「はあ」
「どうやら、お前は善良な人間でこちらに非があると思える。私はあの家に謀られたようだな」
 夢か現実かも曖昧であったが、彼女も今までの鬱憤が溜まりに溜まっていたので、その家について見聞きして知っていることを余さず、つらつらと話してしまった。
「つまるところ、そういう家だから嫌われているんです」
 ふむ、と腑におちたように頷いて、ベッドから離れていった。その頃にはAさんも闇に目が慣れてきて、人影の腕が体に対して奇妙に大きく、獣のごとく毛むくじゃらであることに気がついた。それからドアも開けずに、まるで夜闇にそのまま溶け込んだように、人影は部屋から出ていった。

 そのような人ならざるものと直接相見えるのは良くないようで、Aさんは2日ほど、昏睡状態にあった。
 朝、目が覚めると、そのことを看護師に伝えられ大変驚いた。
「打ちどころが悪かったんでしょうか。ああ、そういえば、こんな夢を見たんです」
 おかしな夢でしょう、と笑いながら語りはじめると、そこにいた医者も看護師もみるみる青ざめていく。顔を合わせて、ああ、それで……と呟きあっていた。
 私、この地域の唯一の医者で、と一番年配の男性が口を開いた。
「何十年ぶりかに検死をしたんです」
「え? 検死?」
「この病院、地下があって、家で亡くなる方が多いからあまり使わない、ささやかな霊安室があるんですが、」
 今ね、いっぱいなんですわ、そこ。その言葉を聞いた途端、背筋に寒いものが走るのがわかった。
「それって、変死体が、」
 医者たちはそれ以上なにも語らず、そうか、そういうことなのか、という囁きとともに病室を出ていった。
 翌日、目を覚ましたと聞きつけ、再び学校の先生方がAさんの見舞いに訪れた。誰も彼も一様に顔に暗い影がかかっている。
「あの、あの家でなにがあったんですか」
 沈黙が昼の光が差し込む病室に満ちて、彼らの視線がひとしきり室内を泳いでから、ようやくひとりが重い口を開いた。
「ああいうことをしてたから、今までの罰が下ったのか、わからないけど」
 Aさんは彼らには夢の話をしなかった。なんとなく、その方がいいだろうと思ったのだ。
「……誰が亡くなったんですか」
「全員」
「え、」
「今、県警が来て、調べてるけど、多分、なにもわからないんじゃないんかな」
 朝、一緒に学校に行く子が迎えに来たら、扉が閉まっているからおかしいと近づいてみると、異臭がする。これは大変だと、親に連絡してそれから交番の巡査を呼んで、彼が率先して中を確認したらしいんだけど、軽く精神が錯乱して今、点滴うけてるんだ。他府県からも応援が来てるらしいんだけど、詳しいことは教えてくれない。
 とにかく全員死んでる、それは確かだ。眉を寄せて心苦しそうにそう言った。
「全員って、あそこの家、けっこう大勢いましたよね」
「全員だよ」
「強盗、とかではないんですか」
「知り合いだから、巡査の見舞いに行ってきたけど、もう人間のできることじゃないって」
 あんな感じに人間を引き抜くことはできない、と彼は言葉通り、そう言っていたそうだ。
「それ以上何も言わない。とにかくいろいろ引き抜かれていて、その死体がひとところに纏まっていたらしい」

 到底あり得ないことだが、熊かなにかの獣がやったのだろうと結論づけられた。申し訳程度に猟友会が山を一周して、もう危険はないという落とし所で事件は解決したことになった。
 それから数年後、Aさんは別の土地に赴任したが、いじめられていた少女とは年賀状をやりとりするくらいには付き合いが残っていた。ふとした機会に、あの家の箱はどうなったか聞いてみた。
 家の人が皆死んで引き継ぐ者がいなくなったので、燃やすなり捨てるなりしなければならないと、村の若い衆で怯えながら確認しに行ったそうだ。すると、その箱は原型を留めずにバラバラになっていたらしい。
 ハコソはあの夜、家とともに終わったのだ。


ツイキャス「震!禍話 第26夜」(2018年9月21日)1:23:53頃〜を抜粋、文章化したものです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?