イスラムにおける伝統の継承 -書道・装飾美術に携わる人びと-
2015年3月、ヤヴズ・セリム特別教育校(在トカット市)のジハン・オズトゥルクさんが是非イスタンブルで会うようにと、ある人物を紹介してくださった。
その人物は、ファーティフ・スルタン・メフメット財団大学芸術部の先生を務めているとのことだった。この学校はイスタンブルのアジア岸の丘の急な坂の上にあり、エミノニュでマルマライ海底地下鉄に乗り、ユスキュダルから乗り合いバスに乗り、坂を30分以上徒歩で上ってやっとたどり着いた。
ヒュスレヴ•スバシュ先生はこの大学でイスラム書道学の教授と学長を兼務し、国内の美術品修復プロジェクトを同時並行で進めている、といった風であった。とても忙しそうだったが、授業の合間に何とか会って下さった。
ヒュスレヴ氏は黒のスーツを着こなし、西洋風の洗練された雰囲気であった。「オスマン時代の古民家ねぇ・・・私はイスラム書道の専門家なのだが、何を聞きたいのだね?」そう言われて困ってしまった。書道に関する知識はほとんどない。先生は、アシスタントの女性と忙しそうに打ち合わせ・報告・電話連絡を繰り返している。
とりあえずヒュスレヴ先生とイスラム書道との馴れ初め?を聞いてみた。
「私は小さい頃から書道が好きでね、研究者として書道に取り組んできたんだ。今でも自分で創作することを続けているよ。イスラムには多くの伝統芸能があったけれども、18、19世紀以来伝統芸能の多くが西洋の文化の影響を受け、変化を余儀なくされてしまったんだ。純粋な形で残ったイスラムの芸術というものはとても少なかった。
その中でイスラム書道だけが西洋の思想を直接的には受けず、過去のイスラムの伝統の中からのみ進化をし続けたんだ。書道は西洋化の中でもイスラム教徒のアイデンティティの拠り所として機能してきたし、これからもそうあり続けるだろう。」
墨の色の中に表現される精神世界。といったら少し大袈裟か。西洋には書道(カリグラフィ)という文化がなかったことが、イスラム書道が独自の発展を遂げた要因であると思うが、あまり知らない分野なのでこれ以上は触れない。
日本人である我々には、イスラム書道、特に黄金の金箔が張られた書道装飾を見ると、おどろおどろしさとか華美(すぎる)印象を受けてしまう。ただ日頃イスラムの世界に触れて生きている人たちには、それが、神の荘厳さや、精神世界の内側の深い感動を引き起こすものを感じさせるのであろう。
中国書道だったら楷書とか草書体があるように、イスラム書道でも様式や流儀、派閥がうるさいようだ。オスマン時代のカラ・ムスタースィーミーという作家の名前だけは覚えた。
インタビューは一向にはかどらず、ヒュスレヴ先生が部屋を出て行ってしまった。手持無沙汰にしていると、わきの机で作業をしているアシスタントの女性が会話に付き合ってくれた。その人は美術系の大学院を出てイスラム寺院装飾の修復に携わっている方だった。
彼女の仕事の話は、聞いていてとても面白かった。ファティフ、スレイマン、エディルネカプ(この辺りの記憶は少し曖昧、いずれもイスタンブールの著名なモスク)などの大きなモスクで、現役として壁面装飾の修復作業に当たる美術研究者であった。
装飾修復の作業というのは、丹念に現行の古びた装飾のスケッチを残すことが基本であり、過去の文献や記録に残されたものに対する知識をつけていくことが必要とされるという。知識も経験も伴い、熟練してくると、時空の中で過去と現在の装飾を比較・対照し、その中から真に価値あるものを見出すことができるようだ。逆に言えばそこまで出来ないとモスクの装飾を塗り替えるという大仕事は出来ないのだ。
自分の中に真に価値あるものを選び出し、伝統の中から丁寧に学び続ける姿勢こそが現在という時間を映えさせていってくれるものなのだろう。イスラムにおける伝統技術・美術はこうした形で継承がされているようだ。
今回は不勉強だったので、これ以上の取材は出来なかった。ヒュスレヴ先生とアシスタントの女性に暇を告げて、乗り合いバスでユスキュダル埠頭へと帰った。いつか、再チャレンジしたい。
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