〔読書評〕火野葦平『麦と兵隊』

火野葦平

1907年北九州市生まれの作家。日中戦争下の徐州の会戦(江蘇省・山東省・安徽省・河南省一帯)に軍報道部員として従軍。

日中戦争に従軍した記者による徐州会戦従軍記。広大な美しい麦畑の中で、殺伐とした殺し合いが続く。中国の民衆の生活に共感を示す筆者の筆はあくまで柔らかいが、総力戦争下の緊張が作品を通じて伝わる。

この小説に鮮やかな色彩をもたらすのは、中国の各民家の入口にかけられた赤い紙々の描写である。「紫気東来」、「天地皆春」といった生活の安寧と幸福を願う文句に筆者は中国民衆の瑞々しい生活感情を感じる。中国人は国家を信ぜず、家族や宗族の紐帯を重きを置くとされるが、こんなにも鮮やかにその生活のリズムや細やかな感情を切り取った小編があったであろうか。無愛想な顔をする中国人捕虜の胸ポケットから出てきた恋人からの恋文を見て、著者はその真摯にして清明な慕情の表出に束の間、人間的感情を回復する。

しかし、時局は戦争下である。著者は中国人に対して親愛や慕情を感じながらも、一方で自らが所属する国家や軍の立場を時に愚直なまでに肯定しようとする。中国人捕虜の殺害を無感動・無機質に見つめる彼の姿にもはや精彩はなく、ある種の固陋さ・陳腐ささえ感じさせる。

茫漠たる麦畑の戦場に存在しているという現実感のなさ、どこに敵国軍が潜んでいるかわからない恐怖、目の前の戦争の現実をあくまで肯定しようとする精神の定性的な働き、人間の営みに安堵と平穏を感じる心、軍報道員としての職務、戦争や時代の変革期に参画しているという一種の昂奮。それらのものがないまぜになり、現実感を失ったままに物語は進む。

著者は敗戦後、戦争遂行に加担した戦犯として苛烈な追及を受けた。





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