福田みどりさん との邂逅

 福田みどりさんの訃報をニュースで知ったのは司馬遼太郎フェローシップの面接を受けた翌日の晩であった。喪主は昨日東京駅で私の面接をしてくれた上村洋行さんとあった。この上村さんという人は、司馬さんの業績を残そうと彼のことばかり考えていたから、彼と同じような顔になってしまったんだろう、そんな事を考えていたら、誰よりも司馬さんのことを愛していたであろう、妻であるみどりさんが亡くなってしまった。司馬さんの小説に触発されて大学に進み、数年前からフェローへの応募を考えていた自分には何か縁を感じさせるものがあった。直接の面識はなかったのだけれど、1日だけ、彼女とすれちがったような気がずっとしていた。

 みどりさんは司馬さんの恋女房であった。産経新聞社で、職場の同僚であった彼女に一目惚れし、デートをするようになったらしい。難波あたりのカフェに一緒に行ったというエピソードを読んだことがある。司馬さんは後々には有名になるが、デート中は寡黙な典型的な大正男であったようだ。みどりさんは、当時としては珍しかったキャリアウーマンで自分で仕事を続けていくことを強く望み仕事に邁進していた

 ただ彼が『梟の城』で直木賞を受賞し、忙しくなってくると状況は一変した。一人では回らなくなり、夕飯さえ一人ではまともに用意出来ていない夫を見て、みどりさんは決意を決めたらしい。彼女は社を離れて、サポートをする役割に徹した。その頃の手記を見ると、人知れぬ苦労をした様子が感じられる。けれども時折見せる笑顔は、とても幸せそうであった。

 さて、『豊臣家の人々』、『新史太閤記』という作品群がある。これらの物語では、太閤・豊臣秀吉の栄華の物語が語られる。関東生まれの人間には新鮮なのだが、関西圏の人々は戦国時代の歴史を自分たちの歴史に結び付くとても身近なものだと捉えているようだ。
幼い頃は「猿」と渾名され悪評も多き秀吉であるが、大阪人たちには、この尾張の片田舎から出てきて大阪城本丸の主となった彼を尊敬する気持ちがどこかにあるようだ。司馬さんも奈良や大阪で生まれ育った人であるから、そういった感覚があるらしい。司馬さんが生まれ育った奈良県・葛城山系 生駒山を超えたところからは、狭い大阪平野と大阪湾がよく見える。尾張の寒村の出から、大阪城と西日本一帯の覇者となったのだから人々はが尊敬の思いを持つのも無理はないだろう。人は誰しも郷土の英雄には肩入れをするものなのである。司馬さんの秀吉描写には、武将としての彼の人格へのリスペクトが感じられ、大阪人の郷土感覚に触れたようでとても新鮮な感覚がした。話が大分逸れた。

司馬さんが1番好きな女性のタイプは秀吉の妻・北の大政所寧々らしい。そして寧々のモデルは他ならぬ、みどりさんである。
 みどりさんは周囲の人々にとても人気があったという。時に気難しくなる司馬氏をいなし、機嫌のよい、原稿の貰えるタイミングを教えてくれる気遣いがあったそうだ。常に明るく鷹揚で懐の深いみどりさんに、誰もが明るい気持ちになったという。

 弟の上村洋行氏も、「夫婦でありながら、兄弟であり、父子であり、師弟のようでもある不思議な関係であった」という。司馬家の団欒風景を見ていると、二人ともとても寛いだ表情をしている。きっと常識では計れないような特別な人を彼らはお互いに見つけたのだと思う。そんな彼らはとても幸せな時間を過ごしたのだと思う。

 そんな司馬さんの死を誰よりも悲しんだのは、他ならぬみどりさんだった。夫であり、作家・司馬遼太郎の業績・歩んできた軌跡を廃れさせぬ為、死の直後から司馬遼太郎財団・記念館、司馬遼太郎賞の創設に取り組んだ。最も尊敬する友人を失った悲しみがあまりにも深かったからであろうか。この時期のみどりさんの働き様には、命を削らんかのばかり凄絶さを感じさせるものがある。
 でも彼女にはどんなに苦しくても明るさや朗らかさを失わないしなやかさがあった。彼女を慕って人々が集まり、亡くなって尚司馬氏は読者や関係者の中では生き続けた。どうしても旦那さんの方が目立ってしまうけれども、司馬氏が理想とした人間像-頼もしく、思いやりがあり、温もりがある人-明確に彼女の姿が軸としてあるような気がする。
 菜の花の忌は、作品や交流を通じてこの夫妻との時間を共有した人々にとって、幸福な時間になり続けているようだった。
 みどりさんは、頑張りすぎたと思います。でもその頑張りによって、みんなが20年も前に亡くなった司馬さんが、まるでそこにいるかのように話しかけあう特異な授賞式が生まれました。きっとその思いは未来の誰かに受け継がれ、新しい潮流を生み出していくでしょう。あなたと司馬さんの軌跡を忘れる人はいません。あなたたちの業績は何度も生まれ変わり、日本のみならず多くの国の人々に影響を及ぼし続けると思います。今はしっかりと休み、少女へと戻った心持ちで福田さんとのデートを楽しんでくださいね。
 「フェローシップでいい思いさせてあげたんだから、一言くらい司馬さんのことを言ってくれてもいいんじゃないかしら?」そんなあなたの声がずっと聞こえていました。一日だけあなたとすれ違えたことをとても光栄に思っています。愛される作家、そして愛されるひと、とは何なのかをあなた達の歩みが教えてくれました。

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