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メキシコシティの旅(4) グアダルーペのマリア

(表紙写真: グアダルーペ寺院(メキシコシティ)、2023年1月、筆者撮影)

テオティワカン遺跡から出発したバスがメキシコシティの北ターミナルに滑り込む。メキシコでは公共のトイレは紙が有料らしいが、その辺がよく分からず出しすぎてしまった。再びメトロに乗り込み、今度はグアダルーペ寺院を目指す。Autobuses del Norteからは5番線Politechnico行きでInstituto del Petroleoで6番線Martin Carresa行きに乗り換えLa Villa/Basillicaで下車する。

今回のメキシコ訪問の中でも楽しみであったグアダルーペ寺院である。テオティワカンでの足の疲れも取れて元気が戻ってきた。

La Villa/Basilica駅から降りて歩いていくと、間もなくして参道のような雰囲気になった。あちこちでお供え用の花が売っているのだが、ここはラテンアメリカであるからか必ずしも日本の様に死を連想させるような雰囲気があるわけではない。アイスクリーム屋なども多くて、ここは宗教心溢れるメキシコのファミリーたちが訪れる行楽地の一つといった感である。

境内に入ると、正面には黄色いドームを頂いた明るい茶色の教会、右手の広場の奥には教会には似つかわしくないアーティスティックな時計台、そして左手には寺院がそびえる。

寺院に入ると中央に祭神が祀られているが、本堂向かって左手には各国の国旗が掲げられ、右手には大きなパイプオルガンがあり、広い天井スペースにはシックな温かい印象の照明が用いられている。寺院というよりも、講堂、国際会議場といった雰囲気である。講堂内には300-400人くらいの参詣者たちがいたであろうか。

さて、この寺院の祭神(神体)は聖なるマントである。その昔心優しきインディオの農夫が教会のミサに向かう途中、テペヤクの丘で不思議な女性と出会った。その女性は彼と同じ褐色の肌をしていたが、「聖母マリア」を名乗り、その丘に聖堂の建立をするように求め、農夫の病身の親類の快復を告げた。親類の快復を実際に目の当たりにした農夫は教会の司教にその話をしたが、司教はその証拠を見せる様に要求した。困った彼が丘に戻って司教のとのやりとりをその女性に話すと、その女性はバラを摘むように告げた。当時テペヤクの丘を含むテノティトランではバラは自生していなかったが、彼が後ろを振り返るとそこには一面のバラが咲きほこっていた。農夫がバラを自分のマントに包んで司教に渡すと、そのマントには農夫が邂逅した女性の姿が映し出されていた。司教はその姿に驚き、聖母の出現を認めた。その時の聖マントがこの寺院の祭神である。この聖マントは寺院の建立時から祭壇に掲げられているにも関わらず、まったく色褪せることはなく、18世紀に清掃員が謝って硝酸をかけてしまった際にも小さなシミで済んだとされる。(Wikipedia記事「グアダルーペの聖母(メキシコ)」、「フアン・ディエゴ」参照。)

この祭壇の下は水平エスカレーターが2基設置されていて、現代の我々はエスカレーターに身を委ねながらマントに現出した聖母マリアの姿を拝むことができる。


スペインを始めとする列強からの植民地支配からの脱却が最大のテーマであったメキシコでは、少なからず左派的な政治潮流が存在したようだ。その一方でスペイン進出以前の土着宗教と、新出宗教であるキリスト教(カトリック)が混雑し、国民宗教となったことで複雑な位相を見せている。

それでも褐色の肌のマリアを畏敬するというのは、個人的に初めて聞いた話ではあったが、とても親近感の沸く話である。思わずもう一回エスカレーターに乗り込んで聖布上のご尊顔を拝んで寺院を後にした。

帰りのメトロでは東洋人として若者に罵られ、乗車中に突然切り替わった女性専用車両からは追い出され、スリの巣窟であるイダルゴ駅から乗り込んできた風体の悪い3人組の男たちに対しては視線で防御した。観光旅行ではあったが、メトロの駅や車中の印象が強く残るメキシコシティー滞在であった。

グアダルーペのマリア・エスカレーターより
時計台?十字架?(グアダルーペ寺院境内)

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