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アイデンティティとしての"在日アメリカ人"


これまでにもTwitterで身辺のことを書いたりはてなブログに様々な記事を投稿したりしてきたが、「自分がどういう人間であるか」ということをまとまった文章で書く機会はなかった。

いまは失業中で時間だけはたっぷりとある身分のことだ。1月に31歳になったばかりだが、東京に引越しして社会人生活や一人暮らしを開始してから2年以上が経過しており、一人前の大人としての生活にもようやく慣れたところだ。また失業なんてそうそうできることではなく、次に就職したら、それからしばらくは働き続けてなければならないことであろう。せっかくの機会だから、今のうちに自分の人生についてゆっくりと振り返りたいものである。

そのため、これからしばらくはエッセイ的な文章を集中的に執筆して投稿してみることにした。


媒体をはてなブログではなくnoteにしたのは、noteの方がはてなブログに比べるとまだしも「私的」な文章に向いているように思えたからだ。はてなブログだと、私的な内容の文章に対して野暮で無粋な連中によるしたり顔のブックマークコメントを付けられて不愉快な思いをさせられてしまう可能性が高いのである。


さて、「自分はどういう人間であるか」ということを他人に説明するときは、やはり、「自分はどういう"属性"を持っているか」ということから説明するのが王道であるだろう。一般論として、「その人がどういう属性を持っているか」ということは「その人がどういうアイデンティティを持っているか」ということに直結すると考えられているからだ。それが他の人が持っていないような珍しい属性…つまり「マイノリティ」な属性であれば、なおさらアイデンティティには重大な影響を与えるはずである。

そして、私には「在日アメリカ人」という属性が備わっている。また、その他にも「白人」や「男性」という属性が備わっている。他にも「京都出身」であるという属性や「文系」であるという属性も備わっているし、最近では「低所得者」であるという属性も身に付けたが、今回は主に"「在日アメリカ人」であるという属性が私のアイデンティティにもたらした影響"に話を絞ることにしよう。


「在日アメリカ人」といっても、留学や仕事などをきっかけにして自発的にアメリカから日本に来日した人の存在は、いまでは珍しくもない。アメリカ人と日本人との間に生まれた「ハーフ」な人も数多く存在するだろう。しかし、アメリカ人の両親のもとで日本に生まれて、その後も家族でアメリカに帰ることもなく日本で育ち続けた、というタイプの「在日アメリカ人」は現代の日本社会においても比較的珍しい存在のままだ(実家の近所には私と同じタイプの「在日アメリカ人」の子供も数人いたが、それは、私の家族が暮らしていた京都市の岩倉という地域にはアメリカ人家族の一家が複数存在していたからである。森林が多くて土地代も安いという土地柄のために、自然に囲まれたなかに大きな洋館の一軒家を建ててアメリカ風な暮らしをしたいというアメリカ人の願望にマッチした地域であったらしいのだ)。

自発的に来日してきたアメリカ人(以後は来日アメリカ人と呼ぶことにする)と、自分の意志によるものではなく親の事情によって日本に生まれ落ちた在日アメリカ人とでは、「アメリカ人」という国籍上の属性は共通していてもそのアイデンティティはかなり異なるはずである。


まず、来日アメリカ人は日本社会に来たいと思った何らかの理由やアメリカ社会を離れたいと思った何らかの理由があるからこそ、来日している。そして、もし日本社会に充分滞在したと判断したり日本に嫌気が差したりアメリカに戻るべき理由などができたり日本でもアメリカでもない他の国に住みたくなったりしたら、彼は日本社会を去ることができるだろう。つまり、日本に住んでいるということは来日アメリカ人にとっては選択の結果である。

対して、私のような在日アメリカ人にとっては日本に住むことは選択の結果ではなく所与の前提だ。もちろん、お金を貯めたり海外でもできる職業に就いたりすることによって日本社会を離れるという選択肢自体は、理論上は私にも存在している。しかしその選択を実行するためには特別の努力が必要となるし、実行しようと思っても様々の現実的な制約(金銭的な問題や気力の問題、健康や年齢の問題など)によって無理である可能性も高い。つまり日本社会に住むということは私にとってはデフォルトの状態であり、私は基本的には日本社会で暮らしていくことを前提として人生設計をしたり物事を考えたりしなければならないのだ。

選択の結果ではなく与えられた前提として日本社会で暮らしていくことは、日本社会に対してどういう見解を抱いたりどういう態度で向き合ったりするか、という自分のスタンスにも影響を与えることになる。来日アメリカ人であれば最低でも二つの社会に暮らしていた経験を持つのだから、実体験に照らし合わせて、「日本社会はアメリカ社会よりも〇〇の面で優れている」「〇〇の点に関しては日本社会よりもアメリカ社会の方が優れている」などの意見を持ち、それを表明することもできる。

しかし、私のような在日アメリカ人の場合には、まずアメリカに長期間暮らしたことがないのでアメリカ社会の実態を自信を持って判断することができず、そのために日本とアメリカとを比較することができない。また、それぞれの社会の良し悪しを比べることができたとして、自分にとってはあまり意味がない。仮に「日本よりもアメリカの方が優れているからアメリカに引っ越そう」と判断したとして、その判断を実行に移すという選択が非現実的なものであるからだ。だから、日本社会に嫌なところを感じたり問題があると認識したりしても、日本社会に住み続けることを前提とした「適応」を行うことが基本的なスタンスになってしまう。具体的には、「日本で労働を行うことは残業が多かったり給与が低かったりしてイヤだなあ」と思ったとしても、比較すると残業が少ない職場を選んだりラクな職種を選んだりなどの、与えられた状態の中でマシな選択肢を選ぶという戦略を採用するしかないということだ。「日本社会の労働条件は他の国よりもひどい!」などの主張をしてもいいし、そう主張することもなくはないのだが、その主張をしたところで自分の状況が改善するわけではないので空虚さを感じることは否めない。

というわけで、文化人にせよTwitterなどのSNSで活躍するインフルエンサーにせよ、自分の出身国の社会と日本社会とを比較して日本の美点を述べたてたり日本の欠点をあげつらったりすることで自分の存在意義をアピールするタイプの「来日欧米人」に対しては、その人の言っていることの正否は別として、私は複雑な感情を抱いてしまう。彼らの言動は「自分には暮らす社会を選択することができる」という自信や実績を前提としたものであるし、その意味では私よりもずっと有能だったりバイタリティのあったりする人たちであることは間違いないのだが、それはそれとして、そのような経歴を持つ人たちに特有のお気楽さや傲慢さや無神経さみたいなものを感じるのだ。また、自分の生まれ育った社会の観点から物事を言って、周りからもそれを期待されている「外国人」というアイデンティティの単純さを羨ましくも感じる。アメリカ社会に長期間暮らした経験のない私には「アメリカ人」としての発言を求められても期待に応えることができないのであり、そのために「アメリカ人」であること自体からたやすくアイデンティティを得ることもできないのである。


余談になるが、私はそもそもアメリカ人が全般的に苦手だ。大学院は外国人の多いグローバル系の研究科であったし、従業員のほとんどが外国人である外資系の企業でも一年ほど働いた経験があるが、そこにいるアメリカ人と仲良くなることもほとんどなかった。会話の機会がいちばん多いのは中国や韓国などのアジア系の人たちであったし、欧米系の人たちであればアメリカ人よりもイギリスやフランスなどのいかにもヨーロッパな人たちの方が話が合った。イギリスやフランスの人たちは普通の声量でゆっくりと落ち着いた喋り方をしてくれるからだ。一方で、アメリカ人たちに関しては、彼らの概してポジティブな価値観や考え方が苦手だということもあるし、それ以上に声のデカさや喋りの速さや会話や文章における定型文の多さなどのコミュニケーションスタイルの時点でもう相入れなかったのである。だから、アメリカに移住するという選択は、仮にそれが実行可能であったとしても私としてはかなり優先度の低い選択肢である。カリフォルニアの自然環境や野生動物の身近さなどには惹かれるものがあるのだが、四六時中アメリカ人たちと会話しなければならないことに比べればヨーロッパなどに移ることの方がずっとマシなのだ。


さて、「在日アメリカ人」という属性からは、他の「在日」の人たち…つまり、在日韓国人や在日中国人などの「在日アジアン」の人々…が連想されるかもしれない。だが、たとえば「在日アジアン」と「在日アメリカ人」とでは、その属性がアイデンティティに与える影響はやはりかなり違ったものになるだろう。


一般論として、日本社会では「外国人」全般に対する差別や偏見が存在する。というか、おそらくどの国の社会でも「外国人」に対する差別や偏見は存在するだろう。他の国と比べて日本社会の外国人差別や外国人に対する偏見がどれだけひどいか、またはひどくないかは私にはわからないが、差別や偏見が存在すること自体は確かなはずだ。

しかし、外国人に対する差別や偏見というものは、対象となる外国人のカテゴリによって異なるあらわれ方をするものである。はっきり言ってしまうと、私のような「白人」に対する差別や偏見は、「黒人」の人々に対する差別や偏見に比べるとずっと少ないはずだ。私には黒人の友人がいるわけではないので彼らから事情を直接聞いた経験はないが、ニュースやネットの記事を見聞した限りでは、日本社会でも黒人差別は根強く存在しているようである。また、インド系の人や中東の人々などに対する差別や偏見も存在するように思われる。それらに比べると、「白人」というカテゴリに対する差別や偏見などは、なくはないだろうが、ずっと少ないはずだ。つまり、「外国人」全般を嫌っているために白人であろうが黒人であろうが漏れなく差別する日本人は存在するだろうし、また白人に対してはさほど差別をしないが黒人や中東系の人々に差別を行う日本人も存在するだろうが、白人に対してのみとりわけ差別する日本人の存在は想像しづらいということである。

実際のところ、私は大人になるまでいわゆる「外国人差別」というものを実感することがほとんどなかった。税金を払っているのに選挙権が得られないことに関しては思うところがないではないが、これは日本に限らず他の国でもあり得ることだし、また生活上の支障にはならないのであまり強く意識することはない。私が外国人差別を最も実感したのは、28歳になって上京してアパートやマンションの部屋を借りようとしたときだ。このとき、「外国籍」であるというだけで借りられない部屋があまりにも多いことを知って驚いたし、おかげで借りる部屋の選択肢が大幅に狭まってしまった。このように明確で具体的な不利益が自分の身に生じるときには、やはり差別の存在を意識せざるを得なくなるものである。(余談だが、上京した直後に部屋を借りようとした中野でも「外国人お断り」の物件は多かったが、その2年後に東京都内での引越しのために部屋を探したときには高円寺の「外国人お断り」物件の多さにはさらにびっくりした。私が訪れたほとんど全ての不動産屋が、店に入った直後に「ウチには外国人に貸せる物件はありません」と言ってくるのだ。高円寺といえばリベラルなイメージがあったから、そのギャップで余計に不愉快になったものである。結局物件は四ツ谷で選ぶことにしたが、四ツ谷では高円寺とは対照的に「外国人お断り」の物件はあまり無かった。)


そして、「在日アジアン」と「在日欧米人」との間でも受ける差別や偏見の種類は異なるだろうし、一般論としていえば前者の方が日本社会において不利益な立場に立たされているはずだ。実社会の一部の人々との会話をしたりインターネットにおける様々な書き込みや記事を見聞したりしていれば分かる通り、外国人に対して憎悪を抱いているタイプの日本人はとりわけ韓国人や中国人に対して憎悪を抱いていることが多いし、日本社会の中に定住している在日の人々に対してもその憎悪を向けるものである。政治家の中にも在日アジアンに対する差別や偏見を堂々と公言する人がいるし、歴史的にも制度的にも在日アジアンに対する差別は根強くて深刻なものだ。

ごく一部の来日外国人や在日外国人のなかには自分の立場を在日アジアンの立場と安直に同一視して、「在日アジアンも自分のように日本社会に好意を示したり日本社会に適応をするべきだ」などと公言する者がいるが、こんな発言は私にはとてもできない。そういう発言をする外国人は歴史や社会科学に関する知識があまりに欠けているのだ。


ただし、他の属性の人々なら経験しないような、「在日アメリカ人」であることに特有のネガティブな経験というものも存在するものである。たとえば私が在日アジアンの人々について羨ましく思ってしまう点として、「コミュニティ」の存在がある。私は学部と大学院とでそれぞれ異なる二つの大学に所属してきたが、どちらの大学にも在日アジアン(及び来日アジアン)向けの学生団体が存在してきた。また、コリアンタウンやチャイナタウンというものは日本にも存在するし、親戚・血縁のネットワークとも接続しやすい。自分と同じ年齢層や性別であり、そして同じ国籍という共通の属性を持つ仲間を見付けて在日アジアンとしての自分の経験に共感してもらうことも比較的容易だろう。…これは私の「やっかみ」であるかもしれないし、在日アジアンであっても諸々の事情で自分と同じ属性を持つ仲間に出会えない人も多数存在しているであろうことは理解している。だが、少なくとも、「在日アメリカ人」としての私の属性ほどには共通する属性を持つ仲間を見付けることは難しくないはずだ。

というか、同じ両親を持つ兄弟や小学校時代にたまたま存在した同級生を例外として、私は自分と同じタイプの「在日アメリカ人」…つまり、両親がアメリカ人だが本人は日本生まれ日本育ちでアメリカで暮らしことのないタイプのアメリカ人…には出会えたことがない。出会えたことがないので友達になったこともない。小学校や中学高校の時にインターナショナルスクールに通っていれば話は違ったかもしれないが、残念ながら小学校はごく普通の公立の小学校だったし、中学生以降は私立の(レベルの低い)中高一貫校に通っていた。

アイデンティティというものには「集団的」な要素が否応なく存在する。「〇〇人」としてのアイデンティティは、単にその属性を持っているだけでは充分でなく、同じ「〇〇人」の仲間が存在したり「〇〇人」のコミュニティに所属したりしないことには確立するのが難しいものなのだ。

というわけで、30歳を過ぎていても、私には未だに自分が「アメリカ人」であるということに対する実感がない。かといって、国籍も違うし肌の色も違うのだから「日本人」というアイデンティティを抱くこともできない。帰化して日本国籍さえ得てしまえば理論上は「日本人」であるし、ポリティカル・コレクトネス的には日本国籍を得ている人に対しては見た目や経歴や名前などが何であっても「日本人」と見なすべきだというのはわかるのだが、実際問題として、国籍を得たところでまず私自身が自分のことを日本人とは見なさないだろう。ここにはやはり「白人」という「見た目」の問題が関わってくる。鏡を見るだけでも「まあ自分は日本人ではないよな」と思ってしまうからだ。外部の人だって事情を知らなければまず私のことを日本人とは見なさないだろうし、「日本国籍を持っているから日本人です」と説明して「そうなんですね」と言われたところで、内心では多くの人が「そんなわけないだろ」と思うことだろう。それは仕方がないことだ。私自身も、たとえばドナルド・キーンが晩年になって日本国籍を得て『私が日本人になった理由』という書名の本を書いたというエピソードについては、いかにもパフォーマンスっぽくて「白々しさ」を感じてしまうだけである。

上述の理由のために、自分がアメリカ人であるという実感がないままでも「在日アメリカ人」というアイデンティティは抱き続けざるを得ない(仮に日本国籍を取得したとしても、やはり自分のことを「在日アメリカ人」と認識し続けるはずだ)。このように中途半端なアイデンティティを持つことは、おそらく精神衛生に悪いだろうし、社会科学的にもたぶん何らかの悪影響が見出せるはずだ。そして、この中途半端なアイデンティティによって発生するメリットは全く存在しないように思える。そのために、「在日アメリカ人」という属性は、いまのところ私に対して「損」しかもたらしていないように思えるのだ。


「損」と言えば、自分の属性のコミュニティもなければ親戚や血縁のネットワークが存在しないことには、アイデンティティの確立云々とは別のより具体的なデメリットも存在する。

在日アジアンであったり、また片親が日本人であるハーフの人であったりすれば、その多くは家族を通じて血縁共同体や地域共同体とつながることができるだろう。

しかし私の両親はアメリカ人であり、父方の親戚はそもそもの数が少なく、母方の親戚は数自体は多いのだがいずれもカリフォルニア在住だ。30年少しの人生において親戚と交流したことは数える程のものである。おそらく私がカリフォルニアに移住することは今後もないだろうから、実質的には、私には親戚との縁は存在しないようなものだ。地域の縁も全くない(京都の実家は町内会付き合いが悪かったり、東京の中野や四ツ谷に一人暮らししたところでそこの地域共同体に溶け込めるはずがない)。そして現在の私は独身である。兄とも疎遠であるから、このまま両親が死んでしまい、そして独身のまま年をとってしまうと、冗談じゃなく「天涯孤独」の身になってしまうのだ。この事実は精神衛生に悪影響をもたらすことはもちろんのこと、経済的にもリスクであるし身体の健康にも様々な影響が出そうなものである。


最後にもう一つ在日アメリカ人であることの「損」を挙げるとすると、それは、アメリカという国自体が嫌われていることだ。アメリカ国籍のパスポートのために入国できない国も多いようだが、そもそも私は海外旅行にほとんど興味がないのでそれは問題ではない。問題なのは、「アメリカに対しては悪口を言っていい」「アメリカに対してはどんな批判をしてもよい」という雰囲気が日本社会に蔓延していることである(おそらく日本社会に限らずヨーロッパでも中国や中東でも同様の雰囲気は蔓延しているとは予測できるが)。

たとえば子供の頃に本屋や図書館の棚に並べられている漫画を手にしてみると、アメリカ人やアメリカ軍が雑に敵役や噛ませ役として出てきてやられたり死んだりしていて、子供心に悲しくなったものである。特に手塚治虫の『三つ目がとおる』がひどかった記憶がある。『はだしのゲン』に関しては物語の題材からしてアメリカが批判されるのは当然なので気にならなかった。また、私のネット上の筆名である「デビット・ライス」も、『魔人探偵脳噛ネウロ』に出てくるアメリカ人の悪役の名前から拝借したものだ(高校生の時分に mixi というサイトに登録する時におふざけで採用した名前をいまでも使い続けている、という経緯だ)。漫画キャラクターとしてのデビット・ライス自体は「アメリカ人に対するステレオタイプ」を戯画化した批評的なキャラクターなのでOKなのだが、『魔人探偵脳噛ネウロ』や同作者の『暗殺教室』ではアメリカ軍が噛ませ役になる描写が多くてやはり嫌な気持ちになったりする。

また、「アメリカに対してはいくら批判をしてもいい」という雰囲気を最も如実に感じたのが大学に在籍していた時である。要するに、授業に出席したら自分の国の悪口を言われるような状況であったのだ。たとえばイングランド史の授業なりヨーロッパ美術史の授業であれば、ヨーロッパ諸国を研究している教授の人たちは自分の研究対象に好意的な感情を抱いていることが大半であるので、授業も和やかに対象の国の魅力を紹介するものになりがちだ。しかし、アメリカ研究を行っている人の大半は国としてのアメリカが好きではないという事情があり、アメリカ史の授業に出席したら「アメリカはいかに人種差別や女性差別を行ってきたか」「アメリカはいかに帝国主義的であったか」ということばかりを聞かされてしまうことになるのである。いうまでもなくこのような授業は私にとっては愉快なものではなかった(ある国に対する悪口を延々と聞かされるだけの辛気臭い授業だから、大半の日本人の学生にとっても楽しいものではなかったはずだろう)。

大学院に進学してからも、「アメリカ研究科」に属している教授陣ですらその大半はアメリカのことをよく思っておらず、「ヨーロッパやカナダやアジアの国々に比べてアメリカはダメだ」という話ばかりをしていた(アメリカを好ましく思わない人々は日本のことも好ましく思わない場合が多いので、アメリカでも日本でもない第三国を持ち上げることになるのだ)。…それはいいのだが、たとえば中国や中東からの留学生が「お客さん」的に丁重に扱われていて、彼らの国に対する批判や悪口がほとんど言われなかったことと比較すると、やっぱり釈然としない気持ちが残ってしまうものである。こういう不愉快な感情も、私が在日アメリカ人でなければ経験することがなかったであろう。



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