試験を経て
7月14、15日に司法試験予備試験を受験してきた。大学2年の春休みに、予備試験の受験を決意してから、ずっと自分の中でのプライオリティはこの試験に受かることだった。手応えとしてはまずまずという感じだ。限られた時間の中である程度やるべきことはやれたし、当日の出来としては持てる実力をほとんど出せたいう感がある。だから、試験を経た直後の今でもある程度自分の気持ちは落ち着いている。
試験勉強を終えて、自分はやっとこましな人間になったなあと強く思わされる。約1年の受験生活を経て自分の考え方は大きく変化した。その変化についてここにまとめたい。
そもそも、大学1年生の時に法的なアドバイスをされる法律家の方の姿をみて法律家という仕事に憧れた。そして、実際に法律の勉強を開始してみると論理的な学問である法律学は自分に向いていると感じた。こうして司法試験予備試験受験の決意をした。大学入学まではずっとサッカーをしてきたところ、大学の生活で何か1つのことに打ち込めていない自分が少し嫌になっていたこともこのような決意をした理由としてある。これは今に振り返ってみると感じることだが、「資格」を得ることで「エリートコース」にのれるということに魅力を感じていたというのもある。
上記の理由で試験の合格を目標に掲げてからは猛烈に勉強をした。複数のサークルに入っていたが、そのサークルへの参加も減らし、人と遊ぶことなく図書館で朝から晩まで勉強するという生活を開始した。この生活に対して、「周りを大切にしろ」であったり、「お前は勉強しかできない」であったり、「お前は生き急いでいる」であったりという言葉を周囲からはかけられた。周囲にこのように言われても自分には「正しい」こと、「やるべき」ことをやっているという自信は持っていた。将来において人助けに資するために自分の力を伸ばしているから、別に周りを大切にしていないわけではない、勉強しかできないと批判されるけれども、批判してくるやつは勉強すらできない、限られた時間を急いで生きようとしないかの方が意味不明と自分の中では整理していた。試験の前半戦(夏休みまで)においては、言ってしまえば、サイコパス的に勉強をできた。
しかしながら、徐々に「正しい」と信じていた勉強だけの生活に疑いが生まれてくることになる。勉強しかしていない自分だったが、幸い食事に誘ってくれる友達は数人いた。その友達と話をすると、そのたびに「今を楽しんでいるなあ」と感じさせられた。彼女と幸せな時間を送ったり、合コンを楽しんだりと彼らは「今」を思いっきり楽しんでいるように感じさせられた。それに比べると自分は人助けをしてこの世界に足跡を残して死ぬ、という目標を掲げそこから逆算する形で予備試験受験を決意した。しかしながら、その遠くにある目標にとらわれるあまり「今」を楽しめていないことに対して果たしてこのままでいいのかと思わされるようになった。
年が明けると、成人式に参加することになった。成人となって様々に自分の立場を築きつつある友達を見て自分の20年の人生を振り返るいい機会になった。振り返るに、自分ってしょうもない人間だなと強く思わされた。サッカーと勉強という軸を持って、それだけを取り組んできた。幸いそれぞれの分野である程度の成果は出てきてはいた。サッカーも選抜選手に選ばれたり、キャプテンを任せられたりなどしたし、大学についても日本では一番と言われる東京大学に入ることができた。そして、現在もその延長で勉強という軸で試験勉強をしている。しかしながら、周りからかねて言われていたように勉強しかできないし、周りを大して楽しませることも周りに刺激を与えることもできない。ただ、自分の中で完結した世界で頑張っているにすぎない、そう感じた。またなぜ勉強するかに関しても単に「資格」というよろいを手に入れることで安易に自分の地位を高めようとしていたのだとふと気付かされた。自分のしていることは本当に「正しい」のだろうかと強く疑うようになってきた。
新学期が始まると周りでは就職活動が始まる。外資系企業に入るには基本的に夏のタイミングから動き出す必要があるところ、周囲の友達も目の色を変えてそれに向けて準備を始めるようになってきた。そのような人を見るにつれ、自分はこの分野に関わることはできないのだなと思わされた。
またSNSでは、同期の学生が起業を成功させ、実際に社会的な評価を受けていることも目に入るようになってきた。勉強に打ち込めている自分はある意味「進んでいる」「正しい」と思い込んでいたが、全然そうではなくて社会になんらインパクトも与えられない人間にすぎないんだと思わされた。
こういった流れの中で、自分とは本当にしょうもない人間なのだという大きな発見が自分に生まれてきた。それまで同年代としてはある程度「進んでいて」、やっていることも「正しい」という思い込みがあったが、決してそういうことはないと強く思わされたのである。これまでの人生では自分の才能を慢心して努力を怠っていたわけではない。しかし、ある程度目に見える各種の成績において優秀なものを収められていたから自分が大したことのない人間であるということは恥ずかしながら心の底から思ったことはなかったのである。
この気づきから、本当の意味での謙虚さが自分の中に生まれてきたように思っている。自分をここまで支えてきてくれた人への感謝も生まれてきた。どこかで自分の才能でのし上がったと思っていたが、このしょうもない自分がここまでこれたのはほかでもない他人の支えによるものだと感じたのである。そして、本当に自分の周囲にいてくれる人を大切にしたいと感じた。しょうもない自分が一人だけで生きていくことはできないし、一人だけでは人生を楽しめないと感じたのである。
そこから、少し自分の視界が開けたように感じている。周りとの人間関係も良くなってきた。ここまで21年間で最も大きく自分の人格が変わった瞬間だと確信している。
勉強を開始した際は、自分が自分がという思いでいわばサイコパス的に勉強に取り組んできた。しかしながら、その過程で、自分のしょうもなさに気づき、少しでもこましな者になろうと思い、謙虚さを持って周りを大切にできる人になりたいと強く感じさせられた。
このような人格の変化が起こらなければ、より勉強に集中できたかもしれない。しかし、かかる変化は自分の人生に彩りをもたらしてくれるものであると確信している。このような機会を与えてくれた試験にはとても感謝している。
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