怒りについて
先日都内で電車に乗っているときに、新刊本の広告を見ました。それは、いわゆる「怒りのマネジメント」本で、どうやって、「怒り」を抑えるかということのノウハウが書かれているものでした。
その中に、こういうやり方があるそうです。
「あいつは間違っている」のではなく、
「あいつは違っている」と考える。
つまり、「マヌケ=間抜け」の方法です。
「怒り」は、相手が「間違っている」と思うと、ふつふつと湧き出て来ますが、もし、「違っている」と納得するなら、怒りは沸かずに、もしかしたら「尊敬心」まで生まれるかもしれません。
私は、この社会を見て、怒るべきことはたくさんあると思っていますが、まず、この「間抜け」というフィルターをかけて、些細な「間違い」は除去して、本当に怒るべきことに対して声を上げるべきだと思うようになりました。
バイブルも怒りに対してこう教えています。
「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」(エペソ4・26)
怒ることはあっても、それを続けてはならないのです。なぜなら、その怒りのエネルギーが、やがて自分を滅ぼしてしまうからです。
主イエスも、神殿で怒りを爆発させたことがありました。それは、神の宮が祈りを忘れ、ビジネス化していたからです。
「それから、イエスは宮に入って、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。『「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている』」(マタイ21:12、13)
本当の間違いを指摘するためには、本当のことを知らなければなりません。つまり、真理を知ることなしに、簡単に怒るなかれということです。
おそらくは、私たちの怒りとは、相手を裁くための、単なる感情の爆発に過ぎないのでしょう。
この記事を読んで、「間違っている」と思われるか、「違っている」と思われるかで、怒りの度合いが違うのだと思います。
お試しあれ!
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