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ラマナ・マハルシについて

最近kindle unlimitedで本読みまくってたので
その中からラマナ・マハルシに関して軽いまとめ。
(専用のタブレットなくても、アプリインストールで読めるなら早く登録しとけば良かった。。月額1000円ちょうど位で色んな本読み放題。個人的には興味ある本や著者について、半数近く読み放題な印象です。)

ちょっと前まで、マハルシについては、「私は誰か?」と問い続けることで、真我実現に到る、という教えを説いていたという程度の認識でした。

本読むと、確かにそれをやたら推しているんだけど、
それに付随した、彼(若干失礼)の、人間についての見方を知っておいたうえで、取り組まないと、効果は薄いかもという印象。

まず、ありのままの我々が既に真我。
そこから、観念として、「私」が浮かび上がってくる
→「私は肉体だ」→「何とかしなきゃ」
この「私」が浮かび上がってくる時点から後が、すべて想念である。
そして、「私」、「自我」、「心」これらすべてが想念に過ぎない。
これらの発生源は何か?「私は誰か?」と問うことで想念、自我、心は(一瞬)しずまる。

おそらくここで難しいのが、最初は、真我が虚無や、ただの空白
状態、無、何か恐ろしいものとして「感じられ」
またもとの「私」の活動に戻りたくなることにありそう。

ただ、問い続けることで、「私」、「自我」、「心」に付随する想念に巻き込まれ続けることも少なくなり
さらに大切なポイントとなりそうなのが
この、私・自我・心も、含めた想念自体が、発生しづらくなるor発生しても、水蒸気のようにすぐに霧散してしまうという現象にありそう。そしてなぜか平安状態になる。

そしてドロっとした「私」という想念がほとんど発生しない状態が日常的に出来上がると、勝手に平安、愛、至福、美、祝福、恩寵、力、がなだれ込んでくるという仕組み。

多分まず、この「私」「自我」「心」が想念に過ぎないということを確認しておくことが、「私は誰か?」と問うことに、意味と力を持たせるような気がしました。

(個人的に新しい気づきだったのが、心ってただの想念だったんだということでした。)

全然上手くまとめられませんでしたが、実感としてはかなり取り組む価値があるように思えます。

到達すべき所に先に自分を置いて、それとは違うまがい物をバッサバッサと切り捨てていく感じ。
目標に向かって努力する私すらひっくるめて、最後に切り捨てることで、逆に?目標物を得る、目標物になる、それでいる。という逆からのアプローチに思えます。

(推敲せずに書いた文なので、読みづらく申し訳ないです。)

(他に読んだ本では、ニサルガダッタ・マハラジ「意識に先立って」
デイビッド・ホーキンズ「わたし−真実と主観性」が秀逸?でした。)

わ〜い!😄