執筆日:2023年12月4日(月)
更新日:2024年5月24日(金)
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はじめに
ラテン語の聖書の物語をカラフルな光の絵画・光の壁で視覚的に伝えるステンドグラス。キリスト教の世界は、聖母マリアからこの世に生まれ、30代前半と若くして十字架に架けられ、死した後も復活した主イエス・キリストの壮大な物語がある。世界中の人々を魅了させてきた「キリスト教」は、教会建築、教会美術によるステンドグラスを通して、どのようにして聖書の物語を表現し、わたしたちに伝えてきたのかを紹介したいと思います。
超大国「古代ローマ」から西ローマ帝国と東ローマ帝国へ
12世紀頃から建築され始めるゴシック様式の大聖堂「ゴシック建築」の特徴であるステンドグラスを紹介する前に、地中海で広がったキリスト教の歴史背景を紐解く。小さな都市国家「古代ローマ」は、紀元前753から始まり、紀元前1世紀末に地中海世界全域を支配する超大国まで成長した。しかし、3世紀以降は、衰退が始まり、4世紀(395年)に東西に分裂する。このときに誕生したのがイタリア・ローマを中心とする西ローマ帝国、トルコ・コンスタンティノープル(イスタンブール)を中心とする東ローマ帝国である。5世紀(476年)、西ローマ帝国が滅亡する。しかし、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は、オスマン帝国に滅ぼされる15世紀(1453年)までの約千年間の歴史をもつ。
313年、約300年間の迫害をカタコンベ(地下埋葬所であり、初期キリスト教徒の礼拝所)で耐え、信仰を継承してきたキリスト教が初めてローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって公認される。ちなみに、日本のキリスト教は、関白豊臣秀吉が発布したキリスト教禁令により、徳川家康によりさらに強化され、3代将軍家光により鎖国令へと発展し、約300年間の長く厳しい迫害を耐えてきた歴史をもつ。
コンスタンティヌス1世は、キリスト教を公認すると、ローマより東側のコンスタンティノープルに移り、新しい都を建設する。392年、ローマ皇帝テオドシウス1世がキリスト教をローマ帝国の国教に制定すると、キリスト教が一気に拡大した。しかし、テオドシウス1世が392年に亡くなると、東ローマ帝国の「東方正教会」と西ローマ帝国の「ローマカトリック教会」へと独自の道を歩み始める。当時、五本山と呼ばれる五大総主教区(ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアの総大司教座教会)に分かれていたが、 アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアの3教会は7世紀以降イスラームの支配下に入る。
主なキリスト教会の流れ
初代教会(原始キリスト教)は、5世紀に離脱したのがコプト教会、アルメニア教会、エチオピア教会などによる「東方諸教会」である。初代教会は、1054年に東西教会に分裂し、東側のギリシア正教会、ロシア正教会などからなる「正教会」と、西側の「ローマカトリック」である。1517年、ルターの宗教改革でローマカトリックから分離したのが「プロテスタント」である。1563年、イギリスの宗教改革でローマカトリックから分かれたのが聖公会(英国国教会)である。
大聖堂のはじまり
紀元前900年頃からフランスの地域に住んでいたのがケルト人であったが、紀元前50年頃には、古代ローマに占領される。この地域は、現在の北イタリアからフランスまでおよび、ローマの属領「ガリア」と呼ばれた。ガリアは、統治制度「キヴィタス」が敷かれ、中心都市集落とそれに属するいくつかの地方(パグス)が形成された。313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認し、392年にテオドシウス帝がキリスト教を国教になると、キリスト教の高位聖職者である司教がガリアのキヴィタスに配置された、キヴィタスとそれに属するパグスでのキリスト教布教に努めていた。ゲルマン民族の侵攻により、395年にローマ帝国が東西分割されたうちの西ローマ帝国が476年に滅びるも、司教が治めるキヴィタスだけが生き残った。
当初、大聖堂(カテドラル)は、ギリシャ語の信徒が集まる意味をもつ「エクレシア」と呼ばれていたが、他の礼拝堂も同様にエクレシアと呼ばれるようになる。そこで、大聖堂と礼拝堂を区別するために、大聖堂を「エクレシア・カテドラル」(司教座教会堂の意味。司教が座る椅子を意味するカテドラル、つまり司教座)と命名されるようになる。以降、12〜14世紀にかけて北フランスの諸都市にゴシックの大聖堂が次々に建築される。
最初のゴシック様式であるサン・ドニ修道院付属教会堂
ゴシック様式は、パリ近郊のサン・ドニ修道院付属教会堂の内陣改築工事において初めて表れる。改築工事は、1140年に起工し、1144年に完成する。ゴシック様式が最初に大聖堂に採用されたのは、パリ東南のサンスのサン・テチエンヌ大聖堂の改築工事である。工事期間は、1140年頃着工で、68年頃にほぼ完成する。
ゴシック様式の建築的な主なる3つの特徴は、①昇高性をもつ「尖頭アーチ」、②側壁にうがたれた縦長の「大きな窓」、③「飛梁」(フライング・バットレス)と「控え壁」(バットレス)である。大きな窓は、透明な光を会堂内に差し込むというよりは、濃厚な色彩をもつ「ステンドグラス」によって染められた低明度の神秘的な光が差し込む。
ステンドグラスのはじまり
ステンドグラスは、着色ガラスを組み合わせた造形作品であり、建築の窓部分に設置する装飾やキリスト教の物語表現を目的としている。12世紀以降、窓を大きく取るゴシック様式の教会建築で発展した。刻々と変化する色彩表現によるステンドグラスは、今までの壁画と異なる新しい表現となった。技法的には、古代ローマ時代に存在しており、類似表現がローマ建築やビザンティン建築で半透明の大理石「アラバスター」(雪花石膏)を使用した採光部がある。その後、イスラーム世界とヨーロッパで発展していき、技術的に繊細な絵画表現が可能となっていった。
ステンドグラスの歴史は、イングランド国教会ロンドン教区の主教座聖堂である7世紀頃の旧セント・ポール修道院教会堂(聖パウロ大聖堂)で用いられていた抽象的なステンドグラス、9世紀にドイツ・旧ロルシュ修道院跡で発見された具象的な《キリストの頭部》のステンドグラスがある。
ステンドグラスの発展
ロマネスク時代
ドイツのアウクスブルク大聖堂の「預言者図」(1100年頃)は旧約聖書に登場する5人の人物、ダニエル、ホセア、ダビデ、ヨナ、モーゼを表したステンドグラスであり、全身像となる最盛期のモニュメント的表現である。フランスのポワティエ大聖堂側廊(1170年)にも表れる。
聖像崇敬をめぐる論争で否定的な立場であったのが、シトー会の聖ベルナール修道院長である。
パリ郊外のサン・ドニ修道院付属教会堂では、修道院長シュジェールが内陣の大きな窓にステンドグラスをはめ込んだ「光の壁」を実現し、光の象徴的な働きを強く訴えた。
ステンドグラスは、青と赤の対比を基調とした物語的展開をもつ小さな画面総合的な構成を実現していく。フランス・シャトル大聖堂の内陣周歩廊南側の窓上部の《美しきガラス絵の聖母》は最高傑作として名高い。青をまとうマリアと背後の赤の対比が美しいのだ。
12世紀後半から13世紀のゴシック期は、ステンドグラスの黄金時代であり、フランスではシャトル大聖堂以外に、ブールジュ大聖堂、サンス大聖堂、ル・マン大聖堂、ランス大聖堂、アミアン大聖堂があり、見る者を惹きつけ、圧倒してやまない。特にパリ中心部のサント・シャペル礼拝堂は、高さ15mにおよぶ15の窓に旧約聖書やキリスト伝の場面を描く華麗なステンドグラスとして有名である。1240年にシャトル大聖堂のステンドグラスを制作した職人が聖王ルイに招かれ、制作に携わっている。ドイツ(現フランス)では、シュトラースブルク大聖堂の作品も有名である。英国では、カンタベリー大聖堂やヨーク大聖堂袖廊のグリザー(灰色調)作品が知られている。
14世紀になると、今までの雄勁(ゆうけい)な表現や輝くばかりの色彩性よりも、むしろ繊細かつ鮮明な絵画的効果をもつステンドグラス表現が増える。ルネサンス期の15〜16世紀では、対象を自然的に描く自然主義的表現が重要視され、また宗教改革の影響もあり、大きな窓のステンドグラスが小さくなり、ときに板絵のの形式も登場した。
バロック建築や古典主義的な建築には、教会建築の光と影の強いコントラストや窓の平面性を前提とするステンドグラスが採用されず、19世紀にかけて衰退した。ゴシック美術が再評価されたのは、19世紀に英国で注目され、20世紀に画家ルオーによるアッシの教会堂、マティスによるロザリオ礼拝堂、シャガールが手がけたメッス大聖堂などである。
聖イグナチオ教会(カトリック麹町教会) 主聖堂
12使徒の象徴性は、キリスト教の原始に帰る意味をダイレクトに構造柱の配置に単純化し、わかりやすい空間を表出、同時に、柱と祭壇中心を結んだ延長上に、天地創造の自然を象徴したステンドグラスの縦長窓を配置し、宗教的アクセントの彩りを加えた。
聖堂上方からの採光は、主聖堂屋上にあるステンレス板リフレクターによって、自然光(夏至、春秋分、冬至)の反射採光をハイサイドライト(高窓)から取り込んでいる。明るく柔らかい光が天上から降り注ぐ空間は、天上への上昇感を感じる神の出会いを身体的に体感できる。コンペ時に松井源吾先生に検討をいただいた「カンピドリオ広場」から引用の天井変形格子梁の図形中心を、祭壇方向にさらにずらす複雑化が音の乱反射で音響学的な心配を解消し、移心の図形が、宇宙の生成、膨張を続ける星雲の渦のイメージをさらに強める効果を期待した。
天地創造の自然を象徴したステンドグラスの縦長窓は、柱と祭壇中心を結んだ延長上に配置し、宗教的アクセントの彩りを加えていることが評価できる。
聖家族の神殿奉献を主題にしたステンドグラスは、1889年(明治22年)に制作されたイングランド島南西端コンウォル地方の中心部トゥルーロにあるエピファニー修道院のステンドグラスとしての信仰の遺産を継承していることが評価できる。
おわりに
参考文献:教会建築家の推薦書籍
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