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論語と算盤④仁義と富貴: 5.罪は金銭にあらず

陶淵明(とうえんめい)は、「盛年重ねて来らず、一日再び晨(あした)なり難し」と題し、朱子は「青年老いやすく学なり難し、一寸の光陰軽んずべからず」と警めてあるごとく、ことさらに空想に耽り、誘惑に陥りやすき青年時代は、夢のごとくに過ぎ去って終うものである。余らが青年時代も真に早く経過して、明日ありと思っていた中に矢のごとく移り去った。今日になって後悔しても詮方(せんかた)のないことである。青年諸君は深くこの前車に注意して、余らの後悔の轍(てつ)を踏まぬようにして貰いたい。諸君の励精によりて、将来国家の運命に影響する所大なるものがあるから、従来相当の覚悟ある人も、さらにその臍(ほぞ)を固めねばならぬのである。
覚悟を新たにするについて、注意すべき点は限りないのであるが、特に注意すべきは金銭の問題である。追々と社会の組織が複雑となって来るが、昔でさえ「恒産無くして恒心を保つことはできぬ」と言われたくらいであるから、活気ある世務(せいむ)に処するほど、金銭問題に関して充分の覚悟がなくては、意外の失敗を演じ過失に陥ることがないとは限らぬ。
もちろん、金銭は貴いものではあるが、またすこぶるいやしい物である。貴い点より言えば、金銭は労力の代表となり、約束によって、たいていの物の代価は、金銭ならでは清算のできぬものである。蓋(けだ)しここに金銭というは、ただ金銀、貨幣、紙幣の類の通貨のみを指すのではなく、総じて代償することのできる貨財は、金銭をもって評することができるので、金銭は財産の代称であるとも言い得ると思うのである。嘗て、昭憲皇太后の御歌を拝誦(はいしょう)した中に、「もつ人の心によりて宝とも仇ともなるは黄金なりけり」とあったように記憶しているが、真に適切なる御評で、吾人の感佩服膺(かんぱいふくよう)すべき名歌であると思う。しかるに、昔の支那人の書いたものに拠ると、一体に金銭をいやしむ風が盛んであるように思われる。左伝に「小人玉を抱いて罪あり」とある類から、孟子に陽虎の言として、「仁をなせば富まず、富めば仁ならず」とあるがごとき、その一例である。陽虎のごときは、もとより敬服すべき人物ではないが、当時にありては知言として一般から認められていたのである。さらにまた「君子財多ければその徳を損し、小人財多ければその過ちを増す」というような意味の言を漢籍の中で読んだこともある。とにかく東洋古来の風習は、一般に金銭をいやしむこと甚だしいもので、君子は近づくべからざるもの、小人には恐るべきものとしたのであるが、畢竟貪婪(ひっきょうどんらん)飽くなき世俗の悪弊を矯(た)めんとして、終には極端に金銭をいやしむ様になったものと思われる。これらの説は、青年諸君は深く注意を払わねばならぬ。
余は平生の経験から、自己の説として、「論語と算盤とは一致すべきものである」と言っている。孔子が切実に道徳を教示せられたのも、その間、経済にも相当の注意を払ってあると思う。これは論語にも散見するが、特に大学には生財の大道を述べてある。もちろん、世に立って政を行なうには、政務の要費はもちろん、一般人民の衣食住の必要から、金銭上の関係を生ずることは言うまでもないから、結局、国を治め民を済うためには道徳が必要であるから、経済と道徳とを調和せねばならぬこととなるのである。ゆえに余は、一個の実業家としても、経済と道徳との一致を勉むるために、常に論語と算盤との調和が肝要であると手軽く説明して、一般の人々が平易にその注意を怠らぬように導きつつあるのである。
昔は東洋ばかりでなく、西洋も一体に金銭をいやしむ 風習が極端に行なわれたようであるが、これは経済に関することは、得失という点が先に立つものであるから、ある場合には謙譲とか清廉とか言う美徳を傷つけるように観えるので、常人は時としては過失に陥りやすいから、強くこれを警戒する心掛けより、かかる教えを説く人もありて、自然と一般に風習となったものであろうと思う。
かつて某新聞紙上にアリストートルの言として、「すべての商業は罪悪である」という意味の句があったと記憶しておるが、随分極端な言い方であると思ったが、なお再考すれば、すべて得失が伴うものには、人もその利欲に迷いやすく、自然、仁義の道に外れる場合が生ずるものであるから、それらの弊害を誠むるため、斯様な過激なる言葉を用いたものかと思われる。どうしても人情の弱点として、物質上のことに眼がつきやすく、精神上のことを忘れて物質を過重する弊害の生ずるは、止むを得ないことであるが、思想も幼稚であり、道徳上の観念のいやしい者ほど、この弊害に陥りやすいものである。ゆえに昔は全体から観れば、智識も乏しく道義心も浅薄(せんぱく)にして、得失のため罪悪に陥る者が多かったのであると思われるので、ことさらに金銭をいやしむ風が高まったのであろう。
今日の社会状態は、昔よりは智識の発達が著しく進んで、思想感情の高尚な人が多くなった。さらに言い換えれば、一般の人格が高まって来ているのであるゆえに、金銭に対する念慮もよほど進んで来て、立派な手段を用いて収入を図り、善良なる方法をもって使用する人が多くなったので、金銭に対する公平なる見解をなすようになった。しかし前述のごとく人情の弱点として、利欲の念より、ややもすれば富を先にして道義を後にする弊を生じ、過重の結果、金銭万能のごとく考えて、大切なる精神上の問題を忘れて、物質の奴隷となりやすいものであるが、かくなりては、責めその人にありとは言うものの、金銭の禍を恐れてその価値をいやしく観るようになって、再びアリストートルの言を繰り返さしむるに至るであろう。
幸いにして世間一般の進歩とともに、金銭上の取扱いも改まって、利殖と道徳と離れまいとする傾向が増して来た。ことに欧米にては「真正なる富は正当なる活動によって収得せらるべき者である」との観念が着々実行されて来ておるが、わが国の青年諸君も深くこの点に注意して、金銭上の禍に陥らず、倍々(ますます)道義とともに金銭の真価を利用する様に勉められんことを望むのである。

本書が書かれた時代は、まだまだ実体経済が成り立つ時代でお金儲けと言っても資本家が労働者から搾取するレベルのもので、資本家が持つ資本と言っても労働者の数を超えないレベルであったろうから、まだまだ逆転のチャンスもあるので持たざるものも期待をもって生きていける時代だったであろうと思われる。

しかし、現代では、雑誌フォーブスによると、2019年に資産10億ドル以上のビリオネアがアメリカには705人もおり、その一方で国民の半分ちかくがその日暮らしの生活をしていて、その後のコロナ禍でさらに格差が開いていると聞く。

また、最近ではメタバースという新たなテクノロジー用語の世界では、現実とは異なる仮想空間や現実を拡張した仮想空間をインターネット上に構築し、その空間上の仮想的な土地を現実世界の不動産のように売買し、バブルを起こしたりしている。さらにはNFTといういわゆる暗号資産のしくみを使って、デジタルな空間の権利情報を暗号化した情報に落とし込んで、決して権利者以外に破られることのない暗号資産として自動売買するしくみと融合させたりしている。このように土地開拓にお金がかからず、オープンで仮想的で無限に広げられる不動産取引という新たな市場を作り出し、そこで現実世界とは関係ない世界で生み出された富が、実体経済や現実世界の政治をコントロールするために利用されるというまやかしの世界が生まれようとしています。

金銭万能の考え方を「物質の奴隷」といっていたころはまだましで、本来人間が住む現実の宇宙に存在する4次元空間を離れ、ネット上に真の形而上的仮想世界を作って精神をそちらにおいて生活をはじめてしまった新人類には、金銭すら物質ではなく実態のないなにかになるのだろうか。

このような時代にこそ、メタバースがよりどころとしている半導体技術やAR/VRデバイス技術、AIや3DCG、ブロックチェーンといったリアルな技術の本質を理解しつつ、現実世界との融合による価値や汗水流して働くことによる価値を使った空想に負けない新しく古い政治や経済のしくみを作り出せたらと思う今日この頃です。

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