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論語と算盤⑤理想と迷信: 6.これは果たして絶望か

私どもの組織している帰一協会(宗教者同士の相互理解と協力を推進する組織)というのがある。帰一というのは外でもない、世界の各種の宗教的観念、信仰等は、遂に一に帰する期のないものであろうか。神といい、仏といい、耶蘇(やそ)といい、人間の履(ふ)むべき道理を説くものである。東洋哲学でも西洋哲学でも、自然些細な事物の差はあるけれども、その帰趣は一途のように思われる。「言(こと)忠信、行ない篤敬なれば、蛮貊(はんぱく、蛮人のこと)といえども行われん」といい、反対に「言忠信ならず、行ない篤敬ならざれば州里といえども行なわれんや」といっておるのは、これは千古(せんこ)の格言である。もし人に忠信を欠き、行ないが篤敬でなかったならば親戚古旧たりともその人を嫌がるに違いない。西洋の流儀も、やはり同じような意味のことを説いている。ただ、西洋の流儀は積極に説き、東洋の流儀は幾分か消極に説いてある。例えば、孔子教では、「己の欲せざる所、人に施す勿れ」と説いてあるのに、耶蘇の方では、「己の欲する所、これを人に施せ」と、反対に説いてあるようなもので、幾分かの相違はあるけれども、悪いことをするな、善いことをせよという、言い現し方の差異(ちがい)で、一方は右から説き、一方は左から説き、しかして帰する所は一つである。かように程合いのもので、深く研究を進めるならば、各々宗派を分かち、門戸を異にして、甚だしきは相凌ぐというようなことは、実は馬鹿らしいことであろうと考える。すべてにおいて、帰一ができるか否かは判らぬけれども、ある程度の帰一を期し得るものなれば、左様あらしめたいという考えで、組織せられたのが、すなわち帰一協会である。
組織以来、最早数年を経過している。これが会員は日本人ばかりでなく、欧米人も多少はいて、しかして、ある問題についてお互いに研究し合っている。私はすなわち、仁義道徳と生産殖利ということは、一致すべきものであり、一致させたいものであることについて、自分は四十年来そのことを唱道し実践している。しかしながら道理はそうであるけれども、これに反する事実がしばしば世間に現れるのは、真に情けない次第である。
自分の説に対して平和協会のボール氏とか、井上博士、塩沢(しおざわ)博士、中島力蔵(なかじまりきぞう)博士、菊地大麓男(きくちだいろくだん)などは、全然帰一とまでは行かないにしても、必ずある程度までは帰一し得らるべきものである。世の中の物事が、時としては横道に外(そ)れるようなこともあるが、それはその事物が悪いので、そのために真理は少しも晦まされるものではない。昔はこうであったとか、こういう理論もあるとかいわれて、仁義道徳を生産殖利とは必ず一致すべきもの、また一致せなければ真正の富を造りなし、これを永久に捕捉(ほそく)することのできないものであるということは、たいていの議論が帰着しようと思うと言っておられる。もし果たしてこういう論旨が充分に徹底して、世の中に鼓吹(こすい)せられ、生産殖利は必ず仁義道徳によらねばならぬ、と言う観念が打成(だせい)されたならば、仁義道徳に欠ける行為は、自ずから止むに至るであろう。例えば、 御用物品の買い上げに従う職司の人も、賄賂は仁義道徳に背くと心付けば、とても賄賂を収め得るものでない。御用商人の側からいっても、仁義道徳に背戻(はいれい)すると思えば、賄賂を行なうことはできまい。
この関係を押し進めて政治にせよ、法律にせよ、軍事にせよ、あらゆる事柄をこの仁義道徳に一致させなければいけない。一方は仁義道徳に従って正しき商売の道を履んでも、一方から賄賂を要請するというような片足ではいけない。世の中のことは、ほとんど車を廻すようなもので、お互いに仁義道徳を守って行かなければ、必ずどこか扞格(かんかく)を生ずるのであるから、一切の事柄をして仁義道徳に合致せしむるよう、相互に努めなければならぬ。この主義を充分に拡大して広く社会に行なうならば、賄賂などというような、忌まわしいことは自ずから止むに至るであろう。

本節にある「帰一協会」は、日本女子大学創立者の成瀬仁蔵を中心に、姉崎正治、浮田和民、渋沢栄一、森村市衛門左衛門らの学者・実業家らが、1912年4月11日に渋沢英一邸にて帰一協会準備会を行い、同年6月20日に発足した協会で、諸宗教・諸道徳が、同一の目的に向かって相互理解と協力を推進することを目標とした団体です(Wikipedia参照)。

規約の第一条は、「本会の目的は、精神界帰一の大勢に鑑み、これを研究し、これを助成し、もって堅実なる思想を作りて、一国の文明に資するにあり」とあり、アメリカやイギリスなど海外にも、趣旨に賛同する知識人たちによって帰一協会(The Association Concordia)が結成されたが、第一次世界大戦以降は活動が自然消滅してしまったとされています。

渋沢先生は、儒教を中心に置いた宗教統一の可能性を見出そうとしていたものの、次第に儒教を中心にした帰一は困難であることに気づき、活動への意欲が薄らいでしまったとされていますが、この活動は少し早すぎた感があります。

実験心理学的研究に基づく進化心理学によるウェルビーイングの探求や持続可能性を重要視する新たな資本主義モデルを模索する世界的な動きがでてきているコロナ禍の現在こそ、決して統一や強要するのではなく、あらゆる文化や民族、宗教を許容する帰一協会的な活動が必要な時代が来ているのではないかと感じています。さらにはこのような活動に儒教的な考え方も一役買えるのではないかと思う次第であります。


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