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論語と算盤⑤理想と迷信: 9.真正なる文明

文明と野蛮という文字は相対的で、如何なる現象を野蛮といい、如何なる現象を文明というか、その限界は随分むずかしいけれども、要するに比較的のものであるから、ある文明はさらに進んだ文明から見ると、やはり野蛮たるを免れないと同時に、ある野蛮はそれより一層甚だしい野蛮に対すると、文明と言える訳になるけれども、今日これを論ずるに当たりては、ただ一つの空理にあらずして実現されておる所のものを例とするより外はない。ただし一郷、一都市についても、文化の程度を異にするけれども、まず一国を標準とするのが文明野蛮という文字に相応しいと思う。私は世界各国の歴史、もしくは現状を詳細に調べておらぬから、細密なるお話はできぬけれども、英吉利(イギリス)とか仏蘭西(フランス)とか独逸(ドイツ)とか亜米利加(アメリカ)とかいう国々は、今日世界の文明国といって差し支えないであろう。その文明なるものは、何であるかというに、国体が明確になっていて、制度が儼然(げんぜん)と定まって、そうして、その一国をなすに必要なるすべての設備が整って、もちろん諸法律も完備し、教育制度も行き届いておる。
かくのごとく百揆(ひゃっき)皆整っているからといって、いまだ文明国とは言えない。その設備の整っている上に、一国を充分に維持し活動すべき実力がなくてはならぬ。この実力ということについては兵力にも論及せねばならぬが、警察の制度も、地方自治の団体も、皆その力の一部分である。かくのごときものが充分に具備している上に、かれこれ、おのおの克(よ)くその権衡を得て、相調和し相連絡して、一方に重きを措き過ぎるとか、もしくは統一を欠くとかいうことのないのが、すなわち文明と言い得るだろう。換言すれば、一国の設備が如何によく整っていても、これを処理する人の智識能力がそれに伴わなければ、真正なる文明国とはいわれない。ただし前に述べたるごとき、完全なる設備の整っている国で、これを運用する人は不完全であるということは、まず少ない道理であるが、ある場合には表面の体裁は完全に見ゆるが、根本が堅実でない場合もあり得ることで、いわゆる優孟(ゆうもう)の衣冠(いかん)で、立派な着物もその人柄に似合わぬというようなことがないとは言われぬ。ゆえに真正の文明ということは、すべての制度文物の具備と、それから一般国民の人格と智能とによりて、初めて言い得るだろうと思う。かく観察すれば、最早貧富ということは論ぜぬでも、文明という中(うち)には自ずから富の力が加わっておるとみて宜しいけれども、形式と実力とは必ずしも一致するものに非ずして、形式が文明であっても実力は貧弱、これは甚だ不権衡の言ではあるけれども、必ず無いとは言われない。ゆえに曰く、真正の文明は強力と富実(ふじつ)とを兼ね備うるものでなければならぬ。
さて一国の進歩はいずれに傾くかというに、古来各国の実例を観るに、多く文化の進歩が先にして、実力が後(あと)より追随するように思われる。ことに国によりては兵力がまず前駆して、富力というものはことさらに遅れ馳せになるということは、多く見る例である。わが帝国の現状もやはり、そういう有様といわねばなるまいかと思う。その国体が万国に冠絶して、しかして百般の施設も、維新以後、補弼(ほひつ)の賢臣(けんしん)が打ち寄って、漸次(ぜんじ)に建設せられたのであるから、洵(まこと)に申し分はないと思っている。ただ、それに伴う富実の力が同じく完備しているかというと、悲しいかな、歳月なお残しと言わねばならぬ。富実の根本たるべき実業の養成は、短日月にして満足し得るものではない。ために前に申す国体とか制度とかいうものが完備せるに比較すれば、富力は頗(すこぶ)る欠如している。ただし、その富を増殖することのみに国民挙(こぞ)って努力するならば、帝国小なりといえども、種々(しゅじゅ)なる方法もあるだろうけれども、富むより先に使用せねばならぬという必要がある。文明の治具を張るために、富実の力を減損するは今日の大なる憂いである。およそ国をなすは、ただ富みさえすれば宜いという訳に行かぬ。文明の治具を張るために、富力の一部を犠牲に供するということは、止むを得ぬであろう。換言すれば、一国の体面を保つため、一国の将来の繁盛を図るため、陸海軍の力を張らねばならぬ。内治にも外交にも、種々の国費を支出せねばならぬ。すなわち一国の治具のためには、その財源を多少減損するということは、勢い免れぬことであるけれども、それが劇(はげ)しく一方に偏すると、終に文明貧弱にならぬとはいえぬ。もしも文明貧弱に陥ったら、百般の治具は皆虚形となり、遠からずして文明は野蛮と変化する。かく考えると、文明をして真の文明たらしむるには、その内容をして富実、強力、この二者の権衡を得せしめねばならぬ。わが帝国において、今日最も患(うれ)うる所は、文明の治具を張るために、富実の根本を減損して顧みぬ弊である。これは上下一致、文武協力してその権衡を失わぬよう、勉励せねばならぬと思う。

当時の日本はまだまだ生産能力や富に乏しいにも関わらず軍備に金を使いすぎだと述べている。富国強兵は国の富と軍事力のバランスが大切であるということか。

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