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論語と算盤④仁義と富貴: 7.義理合一の信念を確立せよ

社会の百事、利ある所には必ず何らかの弊害が伴うは数(すう)の免れざるもので、わが国が西洋文明を輸入して、大いにわが文化に貢献した一面においては、やはりその弊害を免るることはできない。すなわち、わが国が世界的事物を取り入れてその恩沢に浴し、その幸福に均霑(きんてん)したと同時に、新しき世界的害毒の流入したことは争われぬ事実で、かの幸徳一輩(幸徳事件で有名な明治天皇暗殺を企てた社会主義者・無政府主義者一派)が懐いていた危険思想のごときは、明らかにその一つであると言い得るのである。古来わが国には、あれほどの悪逆思想はいまだかつて無かった。しかるに今日そういう思想の発生するに至った所以(ゆえん)は、わが国が世界的に立国の基礎を築いた結果で、また止むを得ざることではあるけれども、わが国にとっては最も怖るべく、最も忌むべき病毒である。したがって、われわれ国民たる者の責務として、如何にもしてこの病毒の根本的治療策を講じなくてはならぬ。おもうにこの病毒の根治法には、恐らく二様の手段があろう。一つは直接その病気の性質原因を研究し、これに適切な方剤を投ずるので、他の一方はできるだけ、身体諸機関を強壮ならしめて、たとえ、病毒の侵染に遭うとも、たちどころに殺菌しうるだけの素質を養成しておくことである。ところで、われわれの立脚地からは、この二者いずれに就くべきかというに、元来実業に携わる者であるから、この悪思想の病源病理を研究して、その治療方法を講ずることは職分でない。むしろ、われわれの執るべきつとめは、国民平生の養生の側にあると思う。国民全部をして強健なる身体機関を養わしめて、如何なる病毒に遭うとも、決して侵害されることのないように、養生を遂げしめなくてはならぬ。ゆえにこれが治療法、すなわち危険思想防遏(ぼうあつ)策について余が所信を披瀝(ひれき)し、もって一般世人、ことに実業家諸氏の考慮を促したいと思う。
余が平素の持論として、しばしば言う所のことであるが、従来、利用厚生と仁義道徳の結合が甚だ不充分であったために、「仁をなせばすなわち富まず、富めばすなわち仁ならず」「利につけば仁に遠ざかり、義によれば利を失う」というように、仁と富とを全く別物に解釈してしまったのは、甚だ不都合の次第である。この解釈の極端なる結果は、利用厚生に身を投じた者は、仁義道徳を顧みる責任はないというような所に立ち至らしめた。余はこの点について、多年痛歎措く能わざるものであったが、要するに、これ後世の学者のなせる罪で、すでに数次(しばしば)述べたるごとく、孔孟の訓(おし)えが「義理合一」であることは、四書を一読する者のただちに発見する所である。
後世、儒者のその意を誤り伝えられた一例を挙ぐれば、宋の大儒たる朱子が、孟子の序に、「計を用い数を用いるは、たとえい功業を立て得るも、ただこれ人慾の私にして、聖賢の作処とは天地懸絶す」と説き、貨殖功利のことを貶している。その言葉を押し進めて考えてみば、かのアリストートルの「すべての商業は罪悪なり」といえる言葉に一致する。これを別様の意味から言えば、仁義道徳は仙人染みた人の行なうべきことであって、利用厚生に身を投ずるものは、仁義道徳を外(よそ)にしても構わぬといふに帰着するのである。かくのごときは、決して孔孟教の骨髄ではなく、かの閩洛派(びんらくは)の儒者によって捏造された妄説に外ならぬ。しかるにわが国では元和寛永の頃より、この学説が盛んに行なわれ、学問といえば、この学説より外にはないと云うまでに至った。しかしてこの学説は、今日の社会に如何なる余弊をもたらしているのであろうか。
孔孟教の根底を誤り伝えたる結果は、利用厚生に従事する実業家の精神をして、ほとんどすべてを利己主義たらしめ、その念頭に仁義もなければ道徳もなく、甚だしきに至っては、法網を潜られるだけ潜っても、金儲けをしたいの一方にさせてしまった。したがって、今日のいわゆる実業家の多くは、自分さえ儲ければ他人や世間はどうあろうと構わないという腹で、もし社会的及び法律的の制裁が絶無としたならば、彼らは強奪すらしかねぬという、情ない状態に陥っている。もし永くこの状態を押して行くとすれば、将来貧富の懸隔は益々甚だしくなり、社会はいよいよ浅間しい結果に立ち至ると予想しなければならぬ。これ誠に、孔孟の訓えを誤り伝えたる学者が、数百年来跋扈(ばっこ)していた余毒である。とにかく世の中が進むにつれて、実業界においても生存競争が倍々激しくなるは、自然の結果といってよい。しかるにこの場合に際し、もし実業家がわれ勝ちに私利私欲を計るに汲々(きゅうきゅう)として、世間はどうなろうと、自分さえ利益すれば構わぬと言っておれば、社会は益々不健全となり、嫌悪すべき危険思想は、徐々に蔓延するようになるに相違ない。果たして、しからば危険思想醸成の罪は、一つに実業家の双肩に負わねばならなくなる。ゆえに一般社会のためにこれを匡正(きょうせい)せんとするならば、この際われわれの職分として、極力仁義道徳によって利用厚生の道を進めて行くという方針を取り、義理合一の信念を確立するように勉めなくてはならぬ。富みながら、且つ仁義を行い得る例はたくさんにある。義理合一に対する疑念は今日ただちに根本から一掃せねばならぬ。

競争競争とかたひじはらずに国も個人も「義理合一」を大切にすれば、全体幸福につながりますよという話でしょうか。

これに加えて現代日本において重要なのは、ルールを守らない外国勢力を排除する視点でしょうか。

論語と算盤、義と理、仁と富、仁義道徳と利益のバランスが大切とうたっている節でした。

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