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論語と算盤④仁義と富貴: 9.よく集めよく散ぜよ

金とは現に世界に通用する貨幣の通称であって、しかして諸物品の代表者なのである。貨幣が特に便利であるというのは、何物にも代わり得らるるからである。太古は物々交換であったが、今は貨幣さえあれば、どんなものでも心に任せて購(あがな)うことができる。この代表的価値のある所が貴いのである。だから貨幣の第一の要件として、貨幣その物の実価と物品の値とが等しくなければならない。もし呼称のみ同一にして、その貨幣の実価が減少すると、反対に物価は騰貴(とうき)する。また貨幣は分割に便利である。ここに一円の湯呑みがある。これを二人に分けようと思っても、分けることはできない。壊して半分にして五十銭ずつに分けることはできない。貨幣だとそれができる。一円の十分の一がほしいと思うと十銭銀貨がある。また貨幣は物の価格を定める。もし貨幣というものがなかったなら、この茶碗と煙草盆の等級を、明確に定めることはできない。しかるに茶碗は一個十銭、煙草盆は一円というならば、すなわち茶碗は煙草盆の十分の一に当たり、貨幣あって両者の価格は定まるのである。
総じて、金は貴ばなければならぬ。これは単に青年ばかりに望むのではない。老人も壮者も男も女も、すべて人の貴ぶべきものである。前にも言ったごとく、貨幣は物の代表であるから、物と同じく貴ばなければならぬ。昔、禹王(うおう)という人は、些細な物をも粗末にしなかった。また宋の朱子は、「一食一飯まさにこれを作るのがたきを思うべし。半紙半縷(はんるい)来処のやすからざるを知れ」と言ってある。一寸の糸屑半紙の紙切れ、または一粒の米とても、決して粗末にしてはならないのである。それについて、ここに一つの佳話(かわ)がある。英蘭(いんぐらん)銀行に有名なるギルバルトという人が、青年時代に目見えのため銀行に出頭して、その帰る時に、室内に落ちてありし一本の「ピン」を見付けて、ギルバルトはただちに、これを拾って襟にさした。これを見た銀行の試験役はギルバルトを呼び止め、「今、足下は室内で何かお拾いになったようですが、あれは何ですか」と聞くと、ギルバルトは臆する色もなく、「一本の『ピン』が落ちていたが、取り上げれば要用のもので、このままにしておけば危険であると思って、拾い取りました」と答えた。ここにおいて試験役は大いに感心して、さらにいろいろ質問をしてみると、洵(まこと)に思慮深い有望な青年であったので、遂にこれを任用し、後年に至りて大銀行家となったということである。
要するに、金は社会の力を表彰する要具であるから、これを貴ぶのは正当であるが、必要の場合によく費消するは、もちろん善いことであるが、よく集めよく散じて社会を活発にし、したがって経済界の進歩を促すのは、有為の人の心掛くべきことであって、真に理財に長ずる人は、よく集むると同時によく散ずるようでなくてはならぬ。よく散ずるという意味は、正当に支出するのであって、すなわちこれを善用することである。良医が大手術を用いて患者の一命を救った「メス」も、狂人に持たしめると人を傷つくる道具となる。また老母の孝養に必要なる飴も、賊いたずらに与うれば枢(くるる)の開閉に音なきの盗具となるゆえに、われわれは金を貴んで善用することを忘れてはならない。実に、金は貴ぶべくまたいやしむべし。これをして貴ぶべきものたらしむるのは、偏(ひとえ)に所有者の人格によるのである。しかるに、世には貴ぶということを曲解して、ただ無闇にこれを吝(おし)む人がある。真に注意せねばならぬことである。金に対して戒むべきは濫費(らんぴ)であると同時に、注意すべきは吝嗇(りんしょく)である。よく集むるを知りて、よく散ずることを知らねば、その極み、守銭奴となるから、今日の青年は濫費者とならざらんことを勉むると同時に、守銭奴とならぬように注意せねばならぬのである。

金は決して卑しいものではなく、金は天下の回りものであるし、必要なときに必要なお金を使うことは大いにすべきであると述べられてます。

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