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論語と算盤⑥人格と修養: 4.二宮尊徳と西郷隆盛

井上侯が総大将を承って采配を振り、私や陸奥宗光(むつむねみつ)、芳川顕正(よしかわけんせい)、それから明治五年に、英国へ公債募集のため洋行するようになった、吉田清成(よしだきよなり)なぞが専ら財政改革を行なうに腐心最中の、明治四年頃のことであるが、ある日の夕方、当時私の住居した神田猿楽町(かんださるがくちょう)の茅屋へ、西郷公が突然、私を訪ねて来られた。その頃西郷さんは参議というもので、廟堂ではこの上もない顕官である。私のごとき官の低い大蔵大丞(おおくらだいじょう)ぐらいの小身者を訪問せらるなど、すでに非凡の人でなければできぬことで、誠に恐れ入ったものであるが、その用談向きは、相馬(そうま)藩の興国安民法についてであった。
この興国安民法と申すは、二宮尊徳(にのみやそんとく)先生が相馬藩に聘(へい)せられた時に案出して遺され、それが相馬藩繁昌の基になったという、財政やら産業やらについての方策である。井上侯始め、私らが、財政改革を行なうに当たり、この二宮先生の遺された興国安民法をも廃止しようとの議があった。
これを聴きつけた相馬藩では、藩の消長に関する由々しき一大事だというので、富田久助(とみたきゅうすけ)、 志賀直道(しがなおみち)の両人をわざわざ上京せしめ、両人は西郷参議に面接し、如何に財政改革を行なわれるに当たっても、同藩の興国安民法ばかりは御廃止にならぬようにと、倶(とも)に頼み込んだものである。西郷公はその頼みを容れられたのだが、大久保さんや大隈さんに話した所で、取り上げられそうにもなく、井上侯なんか話でもしたら、井上侯はあの通りの方いえ、到底受け付けてくれそうに思われず、頭からガミガミ跳ね付けられるに決まってるので、私を説きさえすればあるいは、廃止にならぬように運ぶだろうとでも思われたものか。富田、志賀の両氏に対する一諾を重んじ、わざわざ一小官たるに過ぎぬ私を茅屋(ぼうおく)に訪ねて来られたのであった。
西郷公は私に向かわれ、かくかくしかじかの次第ゆえ、折角の良法を廃絶さしてしまうのも惜しいから、渋沢の取り計らいでこの法の立ち行くよう、相馬藩のために尽力してくれぬか、と言われたので、私は西郷公に向かい、「そんなら貴公は、二宮の興国安民法とはどんなものか御承知であるか」と御訊ねすると、「ソレハ一向に承知せぬ」とのこと。「どんなものかも知らずに、これを廃絶せしめぬようとの御依頼は、甚だ持って腑に落ちぬわけであるが、御存知なしとあらば致し方がない、私から御説明申し上げよう」と。その頃すでに、私は興国安民法について充分取り調べてあったので、詳しく申し述べることにした。
二宮先生は相馬藩に招聘(しょうへい)せらるるや、まず同藩の過去百八十年間における詳細の歳入統計を作成し、この百八十年を六十宛(ずつ)に分けて天地人の三才とし、その中位の地に当たる六十年間の平均歳入を同藩の平年歳入と見做し、さらにまた、この百八十年を九十年宛に分けて乾坤(けんこん)の二つとし、収入の少ない方に当たる坤の九十年間の平均歳入額を標準にして、藩の歳出額を決定し、これにより一切の藩費を支弁し、もしその年の歳入が、幸いにも坤の平均歳入予算以上の自然増収となり、剰余額を生じたる場合には、これをもって荒蕪地(こうぶち)を開墾し、開墾して新たに得たる新田畝(しんでんほ)は、開墾の当事者に与えることにする法を定められたのである。これが相馬藩の、いわゆる興国安民法なるものであった。
西郷公は、私がかく詳細に二宮先生の興国安民法について、説明する所を聞かれて、「そんならそれは入るを量りもって出(いづ)るをなすの道にも適い、真に結構なことであるから、廃止せぬようにしてもよいではないか」とのことであった。よって、私はここで平素自分の抱持する財政意見を言っておくべき好機会だと思ったので、如何にも仰せの通りである。二宮先生の遺された興国安民法を廃止せず、これを引き続き実行すれば、それで相馬一藩は必ず立ち行くべく、今後ともに益々繁昌するのであろうが、国家のために興国安民法を講ずるが、相馬藩における興国安民法の存廃を念とするよりも、さらに一層の急務である。西郷参議におかせられては、相馬一藩の興国安民法は、大事であるによってぜひ廃絶させぬようにしたいが、国家の興国安民法はこれを講ぜずに、そのままに致しおいても差し支えないとの御所存であるか、承りたい。荀(いやしく)も一国を双肩に荷われて、国政料理の大任に当たらるる参議の御身をもって、国家の小局部なる相馬一藩の興国安民法のためには御奔走あらせらるるが、一国の興国安民法を如何にすべきかについての御賢慮なきは、近頃もってその意を得ぬ次第、本末顛倒の甚だしきものであると、切論いたすと、西郷公はこれに対し、別に何とも言われず、黙々として茅屋を辞し還られてしまった。とにかく、維新の豪傑のうちで、知らざるを知らずとして、毫も虚飾の無かった人物は西郷公で、実に敬仰(けいぎょう)に堪えぬ次第である。

本節では、明治四年頃、神田猿楽町の渋沢栄一宅に西郷隆盛が訪ねられたことが書かれています。西郷は当時、高官であり、渋沢は低官だったそうで、西郷は相馬藩の興国安民法の廃止を止めるよう要請しました。この法は二宮尊徳により相馬藩で実施され、財政改革と産業の基になったものです。渋沢先生は詳細に法を説明し、西郷は廃止しないことを承諾しました。渋沢先生はこの機会に自らの財政意見を述べ、国家の興国安民法を優先すべきと主張したそうです。西郷は黙って帰ったが、彼の率直さに敬意を表したと述べられています。

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