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論語と算盤⑤理想と迷信: 3.道徳は進化すべきか

道徳というものは、他の理学化学のように、段々進化して行くものであるか。つまり道徳は文明に従って、進化すべきものであるかというのである。一寸(ちょっと)了解しにくい言葉であるが、前にも言うごとく、宗教信念をもって道徳を堅固にするが宜いか。さなくとも、論理の上から徳義心は維持できるものであるというように、追々その解釈が進化し来りはせぬか。蓋し道徳という文字は、支那古代の唐虞(とうぐ)の世より、王者の道というのが、すなわち道徳の語原である。ゆえに、道徳という文字はよほど古い。
進化は生物のみではない。もしもダーヴィン氏の説に拠りて、古いものは自然に進化すべしと言わば、科学の発明、生物の進化に伴って、追々に変更するということになって、しかるべき訳ではないか。ただし進化論は、多く生物について説明したようであるけれども、研究を重ねて往ったならば、生物でなくても追々推移変更するものではないか。変わるというよりはむしろ、進み行く有様がありはせぬか。いつ頃の教えであるか知らぬが、支那で唱える二十四孝は、種々(しゅじゅ)なる孝行の例を二十四挙げてある。その中に最も笑うべきは郭巨(かくきょ)という人が、その身貧にして親を養う私財なく、ためにわが児を生き埋めにしようと思って、土を掘ったら釜が出た。その釜の中に多くの黄金(こがね)があったので、わが児を生き埋めにせずとも親を養うことができた。すなわち、孝の徳であるといっている。もし今の世の中で、親孝行のためにわが児を生き埋めにするといったならば、「馬鹿なことをする、困ったものだ」と、人が評するに相違ない。すなわち孝の一事にしても、世の進歩につれて人の毀誉(きよ)が異なるといっても宜いと思う。さらに一つの例をいえば、王祥(おうしょう)が親を養いたいために、鯉魚(こい)を捕うるとて、裸体(はだか)になって氷の上に寝ておったら、鯉が飛び出したということがある。これは戯作(げさく)かもしらぬが、もし事実としたならば、如何に孝道なればとて、その心の神に感通する前に身体が凍え死したならば、かえって孝道に反するであろう。
想うに二十四孝の教旨のごときは、仮説のものにて的例にはなりがたきも、善事ということについては、見方が世の進歩とともに、いろいろに変わるということがありませぬか。もしある物質について考えたら、すなわち電気もなく蒸気も無かった時のことを今日から回想して、ほとんど並べ較べにならぬようになる。ゆえに道徳というものも、左様にまで変化するものであれば、昔の道徳というものは、あまりに尊重すべき価値は無くなるが、しかし今日理化学が如何に進歩して、物質的の智識が増進して行くにもせよ、仁義とかいうものは、独り東洋人が左様に観念しておる許(ばか)りではなく、西洋でも数千年前からの学者、もしくは聖賢とも称すべき人々の所論が、あまり変化をしておらぬように見える。果たして、しからば古聖賢の説いた道徳というものは、科学の進歩によって事物の変化するごとくに、変化すべきものではなかろうと思うのである。

本節では、物事の本質というのは普遍であって、「道徳」というものも本質的な道理というものが変わっていないので本質は変わっていないよ、と述べている。

本節では述べられていませんが、現代社会では全体主義と不道徳に向かっているように思われ、そちらの方がよほど問題だと思う。コロナ禍でただでさえ混乱したご時世、道理にあった生活、経済、政治、行政が行われることを切に願います。

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