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論語と算盤⑤理想と迷信: 5.人生観の両面

人はこの世に生まれた以上、必ずなんらかの目的がなくては叶わぬことだが、その目的とは果たして何事であるか。いかにして遂げ得べきか。これは人の面貌の異なれるがごとく、各自意見を異にしているであろうが、恐らくは次の如く考うる人もあるであろう。それは自己の長じたる手腕にせよ、技倆(ぎりょう)にせよ、それを充分に発揮して力の限りを尽くし、もって君父(くんぷ)に忠孝を致し、あるいは社会を救済しようと心掛ける。しかし、それも漠然と心で思うだけでは、何にもならぬ。やはり、なんらか形式に現してなさなければならぬので、ここにおのれの修め得たる材能に依頼して、各自の学問なり、技術なりを尽くすようにする。例えば、学者ならば学者としての本分を尽くし、宗教家ならば宗教家としての職責を完うし、政治家もその責任を明らかにし、軍人もその任務を果たすというように、各自にその能力の有らん限りを傾けて、これに心を入れる。かくのごとき場合における、その人々の心情を察するに、むしろ自己のためというよりは、君父のため、社会のためという観念という方が勝っている。すなわち君父や社会を主とし、自己のことをば賓(ひん)と心得ているので、余はこれをしも客観的人生観とは名づくるのである。
しかるに、前陳のようなことは全く反対に、ただただ簡単に自分一人のことばかり考え、社会のことや他人のことなぞ考えない者もあるであろう。しかし、この人の考えのごとく社会を観察すれば、やはりそこに理窟がないでもない。すなわち、自己は自己のために生まれたものである。他人のためや社会のために、自己を犠牲にすることは怪しからぬではないか。自己のために生まれた自己なら、どこまでも自己のために計るがよいとの主張から、社会に起こる諸事件に対し、でき得る限り自己に利益になるようにばかりして行く。例えば、借金は自分のために自分がしたのだから、これは当然払うべき義務があるから払う。租税も自分が生存しつつある国家の費用だから、当然に上納する。村費もまた左様であるが、この上他人を救うために、あるいは公共事業のために義捐(ぎえん)するというような責任は負わない。それは他人のため社会の為にはなるであろうが、自分のためにならぬからだとなし、何でも自己のために社会を経営させようとする。すなわち自己を主として、他人や社会をば賓と心得、自己の本能を満足せしめ、自我を主張するをもって能事(のうじ)終れりとする。余はかくのごときものを名づけて主観的人生観とは言うのである。
余は今これら二者の中(うち)、事実において如何と考うるに、もし後者の如き主義をもって押し通すときは、国家社会は自ずから粗野となり、鄙陋(ひろう)となり、終には救うべからざる衰頽(すいたい)になりはすまいか。それに反して前者のごとき主義で拡充してゆけば、国家社会は必ず理想的のものとなってゆくに相違ない。ゆえに余は客観的に与(くみ)して、主観的をば排斥するのである。孔子の教えに、「仁者は己れ立たんと欲してまず人を立て、己れ達せんと欲してまず人を達す」といってあるが、社会のこと、人生のことは全て、こうなくてはならぬことと思う。おのれ立たんと欲してまず人を立てといい、おのれ達せんと欲してまず人を達すといえば、如何にも交換的の言葉のように聞こえて、自慾を充たそうために、まず自ら忍んで人に譲るのだというような意味にも取れるが、孔子の真意は決してそんな卑屈なものでなかったに違いない。人を立て達せしめて、しかる後に自己が立ち達せんとするは、その働きを示したもので、君子人の行ないの順序は、かくあるべきものだと教えられたに過ぎぬのである。換言すれば、それが孔子の処世上の覚悟であるが、余もまた人生の意義は、かくあるべき筈だと思う。

「人はこの世に生まれた以上、必ずなんらかの目的がなくては叶わぬこと」とはいかにも明治のじいさまがのたまうことだなと思いはしますが、「仁者は己れ立たんと欲してまず人を立て、己れ達せんと欲してまず人を達す」というのはこの通りだなと思う。

そもそもがこんな理不尽な世の中を生きていく上で、人に言えるような夢や目標を持ちなさいというのは結構酷な話で精神安定上よくないので、私も教師の立場なのですが、そのようなことを若者に強制することは今の社会では難しいなと思ったりするのですが、孔子のいう道理にあった生き方をするのは大いに同意できます。さすが孔子さまです。

私もそれなりの学歴を保持し、外資系の会社に就職する名目で上京してきて、エンジニアとして真面目に働いてきたと思ってはいるのですが、いざ独立して仕事をするとなったとき、家族や親戚に頼りにできるものはなく、よりどころとなるものはただ自分の実力といままで培ってきた信頼しかないとヒシヒシと感じるわけです。

そりゃあ、藤沢先生ほど周りに錚々たる人たちが控え、国が近代国家として成長しようとしており、混乱や課題だらけの世の中であれば大きく活躍する夢も希望もいだけたでしょうが、いまのような成熟した世の中では、学歴や特殊技能を持たない多くの若者は自分を落ちこぼれと認識し、鬱になってしまうのもよくわかります。

そんな中、会社の仕事を副業で手伝ってくれている人が、簿記という技術が公平な経済を回していく上で一番基礎になっていることに自ら気づき、二級を取得すべく勉強をはじめたことに最近大変感銘を受けました。というのも、その人も田舎での閉塞的な暮らしに耐えられず、学歴もないのに上京してきたタイプの人で若干ブラックな企業でこき使われているOLさんなわけです。その厳しい環境で生きている中、より安定的なポジションを獲得すべくもがいている途中、これは学んでもいいかなという分野を自ら見つけ精進しているのはとても稀有なことで応援したくなります。

私も人生の目的とはなんだかよくわからないですし、そんなものはなくても充実した日々は送れると思っている人間なのですが、学歴やツテがないために苦労をしている人を陰ながら応援していくという些細なことは続けていければなと思っています。

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