維新後、日本の工商ともに市場がグローバルに開かれ、富国強兵の号令の急速に実業教育は充実してきたが、仁義道徳は旧世紀の遺物としてかえりみられず道徳教育がうしなわれてしまった。しかし、富を擁護し押し進めながらも罪悪の伴わぬ神聖な富を作るには、守るべき主義、すなわち仁義道徳を持たなければならない、ということです。
最後の論語の内容は次のとおり。
孔子の弟子の子貢が最近いい役目にありついて貧乏を脱したところ、昔の貧乏だったころのことを嫌な思い出と思い返しながら、でもいまは金まわりがよくなったと意気揚々と孔子のもとにおとづれた。一番弟子の子貢は「私は貧乏も多少の富も体験してきたつもりでありますが、貧乏でもへつらわず裕福でも驕らなければそれが人間の極致で、それが実践出来れば人として完全に近いといえますよね?」と孔子にきいたところ「なるほど、君が貧富ともに体験したのは一人前であるし、貧にしてへつらわず富んで驕らない態度でいたことも立派だな。しかし、君にとって貧乏は一つの大きな災いだったようだ。」と返したそうです。つまりは、貧乏でも裕福でも、力仕事でも楽な仕事でも、人を雇う側でも雇われる側でも、職人仕事でも単純仕事でも、それを純粋に楽しみ満足できることには叶わないわけで、子貢は貧乏だった時代を嫌な時代だったなぁと思っていたことを孔子に見透かされてしまった。そこで子貢は詩経を例に挙げ、その境地ですか?と孔子に問うて、そのとおりと言われ、他の弟子の前で合格点をいただいた、という話。
生産利殖もどんどんやったらよいが、仕事にはいろいろな立場があるがそれぞれのポジションで楽しく周りをみて自分ごととして仕事を行う、周りをひがんだり自分だけが徳をしようといった仁義道徳に反する考えをやめ、立場やルールにのっとって純粋にお金儲けしよう、といった話なのかなと思いました。