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論語と算盤⑤理想と迷信: 11.廓清の急務なる所以

一と揺るぎ揺るいで、ここに維新の大改革となった。治める人、治めらるる人の分界を去り、また商売人の範囲も狭い区域にあったものが、世界を股にかけての大活動を試みなければならぬということになり、また日本内地だけの商売でも、主(おも)なる品物の運送、蓄積等は、従来たいてい政府の力によって行なわれておったものが、それも一切個人でしなければならぬという風に遷り変わって来た。商人からいえば、全く新天地が開かれたのである。しかして彼らもまた、相当の教育を受けねばならぬことになった。商であれ工であれ、一つの手続きを教え、あるいは地理、あるいは物品、品目に、あるいは商業の歴史に、とにかく、商売を繁昌させるについての必要な智識だけは、世界の粋(すい)を抜いて教えるという風になったけれども、それは主(しゅ)として実業教育であって、道徳教育ではなかった。むしろそういうことは措いて問題にしなかった。そこで自分の富を増そうとする人が続々と出て来る。俄(にわか)分限が出る、僥倖(ぎょうこう)が大富(たいふ)を得た者もある。それが刺戟(しげき)となり誘惑となって、誰でもそういうことを狙うようになる。かくして益々富を殖やす方にのみ相挙(あいこぞ)って進む。そこで富む人は、いよいよ富む。貧しい者も富を狙おうとする。仁義道徳は旧世紀の遺物として顧みない。むしろ、ほとんどその何物たるかを知らぬ。ただ智識だけをもって自家の富を増すに、汲々乎たる有様である。腐敗に傾き、溷濁(こんだく)に陥り、堕落混乱を来す。もとより怪しむに足らない。勢い廓清(かくせい)を叫ばな ければならぬことにもなるのである。
しからば、如何にしてその廓清を計るべきであろう。一般に正当なる利益を進める方法を忘れ、いたずらに利慾の餓鬼となる結果、かくのごとき道徳を滅却するような状態に陥るということは、前に言った。しかし、その行動を悪(にく)むのあまり、生産利殖の根本をも塞ぐというまでに立ち至るのは、甚だ取らない。例えば、男女の品行の甚だ猥褻(わいせつ)に流れるのを嫌って、自然の人情まで絶つということは、甚だ不条理なことでもあるし、また行なわれがたいことでもある。遂には生々(せいせい)の理を失ってしまうことになるのである。実業界の腐敗堕落に対しても、ただこれに対して攻撃戒飭(かいちょく)を加えるという方にのみ力を尽くすのが、適当なる廓清であるか否かは、よほど注意すべき問題であって、あるいはかえって、ために国家の元気を喪(うしな)い、国家の真実の富を毀損するようなことにならぬとも言われぬ。廓清ということは、なかなかむずかしい。旧(きゅう)に復(かえ)って、治める方の人のみが道義を重んじ、生産殖利に従事する人は、なるたけ制限して、ごく小さい範囲に棲息せしむるようにして行ったならば、その弊害を減ずることができるかしれないが、それでは国の富の進歩は止まってしまう。そこで飽くまで富を進め、富を擁護しつつ、その間に罪悪の伴わぬ神聖な富を作ろうとするには、どうしても一つの守るべき主義を持たなければならぬ。それは、すなわち私が常に言っている所の仁義道徳である。仁義道徳と生産殖利とは、決して矛盾しない。だから、その根本の理を明らかにして、かくすればこの位置を失わぬということを、われ人ともに充分に考究して、安んじてその道を行なうことができたならば、あえて相率いて腐敗堕落に陥るということなく、国家的にも個人的にも、正しく富を増進することができると信ずる。
その方法として日常のことにつき、かかる商売にはかくかく、かかる事業にはかくかくと爰(ここ)に詳述はできないが、第一の根本たる道理なるものは、必ず生産と一致するものである。しかして富をなす方法手段は、第一に公益を旨とし、人を虐げるとか人に害を与えるとか、人を欺くとかあるいは偽りなどいうことのない様にしなければならぬ。かくて各々その職に従って尽くすべきを尽くし、道理を誤らず富を増して行くことであれば、如何に発展して行っても、他(ひと)と相侵すとか相害することは起こらぬと思う。神聖なる富はかくて初めて得られ続けられるのである。各人各業がこの域に達すれば、そこで廓清は遂げられたのである。

子貢曰(しこういわ)く、貧にして諂(へつら)うこと無く、富みて驕ること無くんば、如何(いかん)、と。子曰く、可なり。未だ貧にして楽しみ富みて礼を好む者には若(し)かざるなり、と。子貢曰く、詩(『詩経』)に云う、切(せっ)するが如く、磋(さ)するが如く、琢(たく)するが如く、磨(ま)するが如し、と。其(そ)れ斯(これ)の謂いなるか、と。子曰く、賜(し)や、始めて与(とも)に詩を言う可(べ)きのみ。諸(子貢)に往を告げて、来(らい)を知る者なり、と。

論語

維新後、日本の工商ともに市場がグローバルに開かれ、富国強兵の号令の急速に実業教育は充実してきたが、仁義道徳は旧世紀の遺物としてかえりみられず道徳教育がうしなわれてしまった。しかし、富を擁護し押し進めながらも罪悪の伴わぬ神聖な富を作るには、守るべき主義、すなわち仁義道徳を持たなければならない、ということです。

最後の論語の内容は次のとおり。

孔子の弟子の子貢が最近いい役目にありついて貧乏を脱したところ、昔の貧乏だったころのことを嫌な思い出と思い返しながら、でもいまは金まわりがよくなったと意気揚々と孔子のもとにおとづれた。一番弟子の子貢は「私は貧乏も多少の富も体験してきたつもりでありますが、貧乏でもへつらわず裕福でも驕らなければそれが人間の極致で、それが実践出来れば人として完全に近いといえますよね?」と孔子にきいたところ「なるほど、君が貧富ともに体験したのは一人前であるし、貧にしてへつらわず富んで驕らない態度でいたことも立派だな。しかし、君にとって貧乏は一つの大きな災いだったようだ。」と返したそうです。つまりは、貧乏でも裕福でも、力仕事でも楽な仕事でも、人を雇う側でも雇われる側でも、職人仕事でも単純仕事でも、それを純粋に楽しみ満足できることには叶わないわけで、子貢は貧乏だった時代を嫌な時代だったなぁと思っていたことを孔子に見透かされてしまった。そこで子貢は詩経を例に挙げ、その境地ですか?と孔子に問うて、そのとおりと言われ、他の弟子の前で合格点をいただいた、という話。

生産利殖もどんどんやったらよいが、仕事にはいろいろな立場があるがそれぞれのポジションで楽しく周りをみて自分ごととして仕事を行う、周りをひがんだり自分だけが徳をしようといった仁義道徳に反する考えをやめ、立場やルールにのっとって純粋にお金儲けしよう、といった話なのかなと思いました。

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