本節にある「畏くも陛下は大御心を悩まし給い、御先例になき貧窮者御救恤の御下賜金を仰せ出ださせられた」というのは、明治維新直後の大混乱の中生まれた貧困者や弱者に対して、明治天皇が宮廷費・年額七万五千石を節倹して計一万二千石を救済に充てると宣した明治二年に出された窮民救恤の詔のことです。また明治政府軍と薩摩軍の激しい戦闘が繰り広げられた西南戦争では両軍ともに多数の死傷者を出しました。この悲惨な状況に対し、ヨーロッパにある赤十字と同様の救護団体を作ろうと設立されたのちの日本赤十字である博愛社ができたのもこの時期です。
渋澤先生は、日本にも近代的な救貧事業がはじまったこの時から、救貧事業の本質をしっかり見定めていたように思えます。
「なるべく直接保護を避けて、防貧の方法を講じる。」
弱者は常に弱者であると思っているのかそれともそれが願望なのかとも思えるような施策を講じる日本の硬直的な行政とは真逆で、弱者にも機会を与えることで強者に生まれ変わり、国の強さに結びつくような経済の自然の力を信じる方法を模索していたことがわかります。
「救済の方法としては、一般下級民に直接利害を及ぼす租税を軽減するがごときも、その一法たるに相違ない。」
国の公債金が増える一方なので国民から増税をする、といった財務省のやりかたとは真逆の考え方。
「富の度を増せば増すほど、社会の助力を受けている訳だから、この恩恵に酬(むく)ゆるに、救済事業をもってするがごときは、むしろ当然の義務で、できる限り社会のために助力しなければならぬ筈」
「救済の方法如何についてである。それが適度に行なわるれば宜いが、乞食がにわかに大名になったというような方法では、慈善が慈善でなく、救恤が救恤でなくなる。」
国の施策も民間でお金持ちになった人もお金をばらまくのが流行っているようですが、このような方法が普通になるほど、世の中のモラル低下に大きく貢献しているように思えます。
お先が見えず不安定な世の中ですが、一度基本に立ち戻って考え直す必要がありますね。