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論語と算盤④仁義と富貴: 4.防貧の第一要義

余は従来、救貧事業は人道上より、はたまた経済上よりこれを処理しなければならぬことと思っていたが、今日に至っては、また政治上よりもこれを施行しなければならぬこととなったと思う。余の友人は、先年欧州細民救助の方法を視察せんとして出発し、約一年半の日子(にっし)を費やして帰朝したが、余もこの人の出発については、多少助力した点から、帰朝後同趣味の人を集めて、その席上に報告演説を依嘱した。その人の語る所を聞いてみると、英国のごときはこの事業完成のために、ほとんど三百年来苦心を継続して、今日僅かに整備するを得た。また「デンマルク」は英国以上に整頓しておるが、仏、独、米なぞは、今や各自各様に細民問題に力を注いで、一寸の猶予もないとのことである。しかして、海外の事情を見れば見るほど、久しい以前より自分どもが、力を注いでいた所に入れているように思われる。
この報告会のとき、自分も集会した友人に対して、意見を述べた。それは、「人道よりするも経済よりするも、弱者を救うは必然のことであるが、さらに政治上より論じても、その保護を閑却することはできない筈である。ただし、それも人に徒食悠遊させよというのではない。なるべく直接保護を避けて、防貧の方法を講じたい。救済の方法としては、一般下級民に直接利害を及ぼす租税を軽減するがごときも、その一法たるに相違ない。しかして塩専売の解除のごときは、これが好箇(こうこ)の適例である」という意味であった。この集会は、中央慈善協会において開催したのであったが、会員諸君も予の所説を諒とされ、今日といえども、その方法等について種々なる方面に向かい、相ともに調査を実行しつつある次第である。
如何に自ら苦心して築いた富にした所で、富はすなわち、自己一人の専有だと思うのは大いなる見当違いである。要するに、人はただ一人のみにては何事もなし得るものでない。国家社会の助けによって自らも利し、安全に生存するもできるので、もし国家社会がなかったならば、何人たりとも満足にこの世に立つことは不可能であろう。これを思えば、富の度を増せば増すほど、社会の助力を受けている訳だから、この恩恵に酬(むく)ゆるに、救済事業をもってするがごときは、むしろ当然の義務で、できる限り社会のために助力しなければならぬ筈と思う。「己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す」といえる言のごとく、自己を愛する観念が強いだけに、社会をもまた同一の度合いをもって愛しなければならぬことである。世の富豪はまず、かかる点に着眼しなくてはなるまい。
この秋に方(あた)って、畏(かしこ)くも陛下は大御心を悩まし給い、御先例になき貧窮者御救恤(きゅうじゅつ)の御下賜金を仰せ出ださせられた。この洪大無辺の聖旨に対し奉りて、富豪者は申し合わせぬまでも、心中には何とかして聖恩の万分の一にだも酬い奉らなくてはならぬと苦慮するであろう。これこそ余が、三十年来一日も忘るる能わざりし願意で、言わば、願望が今日漸く達せられたというもの。しかしながら、誠に長く心掛けて来たことだけに、ありがたき聖旨を承くるにつけても、前途が非常に明るくなった感じがして、心中の愉快はほとんど譬(たと)えようがない。けれども、ここに懸念すべきは、その救済の方法如何についてである。それが適度に行なわるれば宜いが、乞食がにわかに大名になったというような方法では、慈善が慈善でなく、救恤が救恤でなくなる。それからもう一つ注意したいのは、陛下の御心に副い奉らんがため、富豪が資金を慈善事業に投ずるにしても、出来心の慈善、見栄から来た慈善は決して宜しくないということである。そういう慈善救済事業は、得て誠実を欠くもので、その結果はかえって、悪人を造るようなことになり勝ちである。とにかく、陛下の大御心の存し給う所を思い、この際、富豪諸氏は社会に対する自己の義務を完うせられたい。これ実に畏き聖旨に副い奉るのみか。二つには、社会の秩序、国家の安寧を保持する上において、如何ばかりか貢献することが多かろう。

本節にある「畏くも陛下は大御心を悩まし給い、御先例になき貧窮者御救恤の御下賜金を仰せ出ださせられた」というのは、明治維新直後の大混乱の中生まれた貧困者や弱者に対して、明治天皇が宮廷費・年額七万五千石を節倹して計一万二千石を救済に充てると宣した明治二年に出された窮民救恤の詔のことです。また明治政府軍と薩摩軍の激しい戦闘が繰り広げられた西南戦争では両軍ともに多数の死傷者を出しました。この悲惨な状況に対し、ヨーロッパにある赤十字と同様の救護団体を作ろうと設立されたのちの日本赤十字である博愛社ができたのもこの時期です。

渋澤先生は、日本にも近代的な救貧事業がはじまったこの時から、救貧事業の本質をしっかり見定めていたように思えます。

  • 「なるべく直接保護を避けて、防貧の方法を講じる。」
    弱者は常に弱者であると思っているのかそれともそれが願望なのかとも思えるような施策を講じる日本の硬直的な行政とは真逆で、弱者にも機会を与えることで強者に生まれ変わり、国の強さに結びつくような経済の自然の力を信じる方法を模索していたことがわかります。

  • 「救済の方法としては、一般下級民に直接利害を及ぼす租税を軽減するがごときも、その一法たるに相違ない。」
    国の公債金が増える一方なので国民から増税をする、といった財務省のやりかたとは真逆の考え方。

  • 「富の度を増せば増すほど、社会の助力を受けている訳だから、この恩恵に酬(むく)ゆるに、救済事業をもってするがごときは、むしろ当然の義務で、できる限り社会のために助力しなければならぬ筈」

  • 「救済の方法如何についてである。それが適度に行なわるれば宜いが、乞食がにわかに大名になったというような方法では、慈善が慈善でなく、救恤が救恤でなくなる。」
    国の施策も民間でお金持ちになった人もお金をばらまくのが流行っているようですが、このような方法が普通になるほど、世の中のモラル低下に大きく貢献しているように思えます。

お先が見えず不安定な世の中ですが、一度基本に立ち戻って考え直す必要がありますね。

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