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#大阪テレビ放送 開局初日 『式三番叟』考

◎「寿式三番叟」考
 社長挨拶は20分間。つづいて10:20から「寿式三番叟(コトブキサンバソウ)」が放送された。第一スタジオからの生放送。
 OTVの美術部に在籍されていた阪本雅信さんの著書「上方テレビ美術事始め」によれば、出演者は大夫・竹本綱太夫、津太夫、南部太夫、人形・吉田文五郎、王市、栄三、玉男。松羽目も手摺も仕込んだ本格的なセットでの「上演」であった。
 当時、照明の明るさは尋常ではなかった。それは、カメラの感度が現在のものほど良くなかったからで、長時間ライトを浴びていると、コップの水から湯気が立ち、肌の弱い人は水脹れができる事もあったといわれている。ドラマの食卓シーンに用意された食べ物が本番の最中にみるみる変色していったという話も残っている。そんな中で、文楽が上演されたというのは、何より英断というほかない。まず、強い光線で人形や衣装が傷む危険がある。また、人形遣いの面々も40度を超える中での実演となる。さらにはそんな高温のスタジオ内での太棹の演奏は、困難が伴ったのではないか。
 当時の最新メディアであったテレビジョン放送の最初の番組が、古式床しい「三番叟」であることは興味深い。まずNTV、KRTV、OTVという民放テレビの開拓者が、揃いも揃って「三番叟」を最初に持ってきたのである。また、それに続いて開局した民間放送テレビ局には三番叟を開局初日に放送したものが少なくないのだ。能勢朝次「能楽源流考」によれば、三番叟とは『能楽の“翁”で黒式尉面をつけて,狂言方が演じる舞。翁舞のもどき』と説明されている。”翁”とは”式三番”の別称で、現場ではこの言い方をとる方が多い。開局初日の、しかも記念番組の演目とあれば、当然、社長・役員クラスの決済を仰がなければならない。むしろ、経営者の思惑が直接的に反映されたものである可能性が強い。こんな神がかった演目を初日に据えるのは、どういう思惑があるのだろうか。

◎テレビを「能」に見立てる感覚
 「三番叟」は、なんといっても「能における開始番組」である。
 式三番は翁猿楽からつづく神事”翁舞”に由来する神聖な演目であり、能の番組においては以下が連続して上演される。

◆序段
座着き(役者登場)
総序の呪歌

◆翁ノ段
千歳之舞
翁ノ呪歌
翁之舞

◆三番叟ノ段
揉之段
三番叟の呪歌
鈴之舞

 「序段」と「翁ノ段」は優美な「舞」の要素が強いものだが、「三番叟ノ段」の「揉ノ段」は、大鼓・小鼓・笛に締太鼓を加えた伴奏で賑やかな「踊」が展開され、千歳と三番叟の間で問答形式による謡があったあと、鈴を鳴らしながらの「鈴之舞」でクライマックスを迎える。
 能は、古くは一日がかりの公演が多く、複数の演目で「番組」を組んで公演されていた。その最初の演目として、国家安泰・五穀豊穣を祈る演目である「式三番」を上演したというわけである。
 放送局の開局初日には、「式三番」を上演することが多い。式三番の中でも「三番叟」が最も多いが、式三番に登場する「千歳」にちなんだ演目が放送されたケース(CBC)もある。また「高砂」「養老」「鶴亀」「老松」など「翁付き」(式三番の要素を取り入れたもの)で演じられる格式の高い祝儀演目が選ばれることもあった。
 各局の「三番叟」をいくつかご紹介しておこう。

◆日本テレビ放送網(NTV) 「寿式三番叟」
 日本の民間テレビ番組第一号は、NTV制作・東芝提供による「寿式三番叟(1953年8月28日)」であったが、その演者は、なんと天津乙女(宝塚少女歌劇団時代の6期生。)、南悠子(宝塚歌劇団28期)他であった。背景は松羽目で、装束も正統であったが、宝塚のトップスターによる三番叟とは破格である。まさに「これがテレビだ」といわんばかりの趣向。

◆ラジオ東京テレビジョン(KRTV) 「二人三番叟」
 第二号のKRTVは、在京民間放送局第一号という誇りをかけて「豪華で本寸法」な開局番組を展開。その冒頭に市川猿之助、市川段四郎、坂東三津五郎による「二人三番叟(1955年4月1日11:00〜12:00放送)」を放送した。いかにも在京局の雄である。

◆大阪テレビ放送(OTV)  「寿式三番叟」
 そして第三号であるOTVは大阪を代表するテレビ局として、大阪固有の芸能表現である「文楽」による「寿式三番叟」を放送した。

◆ラジオ九州テレビジョン(RKB)
 1958年3月1日に福岡で開局したRKBテレビは10:00から1951年10月に襲名したばかりの岩井半四郎による操三番叟を放送。毎日新聞社直結の威風を見せた。

◆関西テレビ放送(KTV)
 1958年11月22日に開局したKTVは初日18:00からの「梅田コマ劇場スタジアム中継・バラエティーショー第一部」に「宝三番叟」を放送した。手元の記録に出演者が書かれていないが、この演題は宝塚スター・天津乙女が得意としていたものであり、また、KTVが阪急系列の支援を強く受けていたことからもそう判断できる。

◆北陸放送テレビジョン(MRO)
 芸所・金沢に本社を置くMROテレビは1958年12月1日に開局。11:00から、まず北陸電力提供「記念能」を堂々放送。演目は、シテ宝生九郎、ワキ殿田源三、ワキヅレ殿田保輔、泉喜ニン、謡・佐野安彦ほかによる「高砂」。そして、開局記念番組の中で加賀万歳保存会による「加賀万歳・三番叟、魚づくし」を放送した。提供は日本電気。
 同局はさすが金沢に本社を置くだけあって、1952年ラジオ開局の際は5月9日の前夜祭昼の部で東廓芸妓連中の常盤津「常盤の老松」を、主計町芸妓連中の長唄「猩々」を、そして夜の部では西廓芸妓連中による長唄「雛鶴三番叟」、北町芸妓連中による常盤津「松の羽衣」を放送した。なんとも艶やかな放送局である。

◆フジテレビジョン
 1959年3月1日にニッポン放送と文化放送の合弁で開局したフジテレビジョンは、初日の09:45〜10:30に、左団次・梅幸による「寿式三番叟」を放送。続く10:30〜11:00には文楽「弥次喜多東海道中膝栗毛」津大夫相生大夫を、そして11:00〜11:45に井口基成のピアノ演奏をはさんで12:30からは海老蔵、梅幸、左団次ほかによる舞台劇「与話情浮名横櫛」を放送し、後発局と侮れぬ厚みを見せた。

◆東北放送テレビジョン(TBC)
 仙台のTBCテレビは1959年4月1日10:15に開局記念番組として坂東八十助ほかによる「邦楽操三番叟」を、続いて10:45からは野村万作ほかによる狂言「二人袴」を放送した。

◆札幌テレビ放送(STV)
 強豪HBCに続いてテレビ単営で開局したSTVは、開局初日の1959年4月1日10:25〜10:45から中村時蔵による「邦舞三番叟」を放送した。

◆ラジオ青森テレビジョン(RAB)
 自社制作番組に苦心するRABテレビは1959年10月1日開局に際して10:45〜11:00に祝賀番組「二人三番叟」を放送したが、これは日本テレビが開局祝いのために制作した贈り物。

◆テレビ愛知(TVA)
 ぐっと時代がさがって1983年9月1日に日経・テレビ東京の支援で開局したテレビ愛知が、初日の6:00〜06:30に清元「四季三葉草」を放送した。これは当然「しき・さんばそう」と読む式三番叟のもじり。粋なチョイスではないか。

◆毎日放送(MBS)
 OTVから分かれてできた毎日放送テレビ(旧・新日本放送NJB)であるが、テレビでは三番叟を放送しなかったものの、新日本放送開局(1951年9月1日にラジオ放送開始)の際、18:05から30分にわたって豊竹山城少掾(天皇行幸の際御前演奏をした第一人者)、竹本綱大夫、竹本津太夫、鶴澤寛治郎、竹澤彌七、野澤錦糸による「義太夫『寿式三番叟』」を放送した。これが民間放送による最も早い三番叟である。

 以上、手元の資料でテレビに関する事項だけを拾ったに過ぎないもので、実際にはまだまだあるようだ(確認次第、追記するので時折チェックされたし)。

 テレビという当時の「ニューメディア」が、初日番組にこうした演目を置くのには、単なるお祝いという目的以上に、伝統への敬意、伝統的な精神へのつながりを積極的に表明する目的があるだろう。特に開局第一番の番組に「式三番」にちなんだ番組を持ってくるということは、まるでテレビ放送そのものを番組仕立ての能に見立てているかのようで面白い。新しい通信形式の中で昔ながらの様式が展開されるわけだ。

 たしかに、テレビは能以上に能的ではないか。
 つまり、まったく無機的なガラスの「平面」が、スイッチ一つで「空間」になり、自由な「設定」が与えられ、アンテナという橋がかりを通って、次へとさまざまな「夢」がブラウン管に呼び出され、終わると夢幻の彼方へと帰ってゆく。そう考えると、すべての番組に先立って「式三番叟」が演じられるのは実に道理にかなった話ではないか。
 ここまで穿って初日の番組を組んだかどうかは記録には残っていない。しかし、当時のテレビ開局に関わった人々の見識や知識力を見ると、そのくらいの根源的な発想があってもおかしくないと思うのだ。

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