見出し画像

大阪テレビ放送「ミナロン・ドリームサロン」の話

川崎:「ミナロン」は合成繊維ですか?
阪本・野添・亀井:アセテート。
野添:はじめてミナロン・アセテートができて、番組をやるということが決まった時、われわれのスタジオのジャンパーも全部作って頂きまして。真っ赤な色のネ。OTV演出部は派手やったなァ、あの頃。
川崎:スポンサーの担当が現場を見に来られましたでしょう。
野添:毎週来られましたね。名前も憶えてますが「クマさん」というかたで。
川崎:クマさん?
野添:「久間」と書いてクマさん。お酒が好きで。本番が終わったら、司会の大伴さんのバーへ必ず行ってねぇ。
亀井:酒を飲めないあたしまで付き合ってね(笑)

【「ミナロン・ドリームサロン」とは】
 大阪テレビ放送で■回にわたって放送された音楽番組(1956年12月~1958年。毎週火曜21:45~22:00・提供:新日本窒素・生放送)。
 民間テレビの黎明期、好調真っ盛りであった紡績会社や化学繊維メーカーの提供によるファッション番組の一つ。なかでもファッションショウ感覚の音楽番組が人気を集めた。話の中でも出てきた「ニッケ・ジャズ・パレード(水曜日21:45~22:00・日本毛織提供)」は日本テレビが開局直後から放送した番組。のちに「ゲバゲバ90分」などを制作する井原高忠氏が制作と司会を兼務していた。「ニッケ」はジャズやカントリーを中心とした生演奏に加え、モデルのヘレン・ヒギンズが網タイツ姿を見せるのが人気の的でもあった。大阪ではOTVが開局直後からネットし、読売テレビ開局とともに引っ越した。「網タイツ」の理由について井原氏は「ジャズファン以外の視聴者を引き付けるため」と言っていたが、放送終了に近い時刻を開拓し、ついには「風呂屋がからっぽにした」という話が残っている。
 OTV「ミナロン・ドリームサロン」は「ニッケ」に対抗して、むしろ正統派の音楽路線をとり、ジャズ、カントリー、シャンソン、ラテンなど洋楽を幅広くとりあげた。また、談中にある通り「まもなく売れそうな若手」を中心に選び、毎回デザインの違うアーティスティックなセットと、それを活かす高度な照明で視聴者を魅了した。
 司会は大伴千春。また、番組中にファッション解説のコーナーもあった。
 1958年夏、野添泰男氏の退職後11月に放送を終了。一方、関西テレビに「貴重な経験者」として入社した野添氏は大和紡提供の音楽番組のディレクターをつとめた。
 野添氏は宝塚との縁が深いためOTVで放送されていた宝塚系番組、たとえば「宝塚ファンコンテスト」なども担当していた。関西テレビ移籍とともに宝塚系番組も引っ越していった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?