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日本の放送百年百人 12 『広告放送経験者』

森繁久彌は喜劇俳優として戦後を長らく活躍したが、放送の世界にも深く関わっていた。

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森繁は1939年、全国一般公募でおこなわれた日本放送協会のアナウンサー試験を経てアナウンサーに採用され、三ヶ月の養成期間を終えたのち、満州・朝鮮の放送網拡大のための要員として満洲に渡り、満州電電の新京中央放送局にアナウンサーとして配属された。現地ではアナウンサー業務のほか、宣伝広告や満映作品のナレーション等にも従事。また、対ソ連軍向けの謀略放送も担当したという。極めて稀有な経歴だ。

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この経歴が戦後、役に立つ日が来た。
戦後間も無く、民間放送局設立運動が立ち上がったが、実際に構想すると『広告放送』というものを誰も知らなかった。そこで、戦前・戦中、一般の広告宣伝放送を実施していた満電職員や台湾放送協会の職員からノウハウを得るなどしていたのだが、民間放送運動の最先端にいた毎日新聞社の高橋信三はアナウンサーだった森繁に目をつけ、頻繁に座敷に呼んで設立関係者と共に話を聞いたという。

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この時、森繁は、単に満州での話をするだけでなく、本質的なメディア論にまで踏み込んだ話をしたようだ。
1951年開局の新日本放送を立ち上げる時に話を聞いた縁で、その数年後、大阪に初めて開局する民間テレビ局について意見を求めたところ『大阪ならではのテレビ局を作るのであれば、大きなスタジオを立てるよりも、最新の中継車を五台購入して街中に随時走らせ、スポーツや展示会などさまざまなイベントの現場に走り、何かあったら現地に急行して割り込みで中継すればいい』というまるで21世紀を見据えたかのようなアドバイスをしたことが、記録に残っている。

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俳優としても、映画やテレビドラマのみならず、ラジオのディスクジョッキーの草分けとしても活躍。雑談風のトークと音楽で進行する番組スタイルを完成させたといわれている。向田邦子の放送作家時代の代表作には森繁久彌のトーク台本が含まれる。

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