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#大阪テレビ放送 開局前サービス放送 本放送開始直前期の番組

◎ニュース、やっこ、ボクシング
 1956年11月24日の大阪毎日新聞には、消費者が関心を惹かれるものとして「五輪・ボーナス・OTV」を挙げた。
 ここで注目すべきは「テレビ受像機」ではなく「OTV」だということだ。
 大阪におけるテレビ放送は1951(昭和26)年6月25日から7月4日まで実施されたNHK大阪放送局のテレビジョン実験放送(出力30W・現在の第三チャンネルを使用)から始まった。
 この放送は大阪・馬場町の大阪放送局第二スタジオ(但しラジオ用を改造したもの)で番組が制作され、局舎屋上から送信されたもの。三越大阪店で開催された「躍進する電波展」の会場に受信機をおいて公開された。
 この実験局は、さらに1952年2月26日からは金・土曜日に各三時間づつ、定期放送を開始した。東京ではこれより早く1950年から実験放送がおこなわれ、名古屋でも同じころ実験放送が始められた。しかしこれらはあくまで(内容がどれだけ本格的であろうと)「技術的実験」と「知識普及」の範囲とされ、本予算を投入した放送事業開始への準備ではなかった。
 NHKがまだ本放送への準備に進まなかったのにはいくつか理由がある。ひとつは、この時点でまだ日本におけるテレビ放送の標準方式が決定されていなかったため、免許するための法的な基準がなかったことである。
 また、日本放送協会の予算は国会の承認を得なければならないため、仮に基準が定まっても、いきなりすぐに事業開始の準備にとりかかることができなかった。これは大阪だけの事情ではなく、東京や名古屋の実験局についても同様である。
 「標準方式」については1952年10月に「走査線525本、毎秒30枚」が「日本方式」として採用された。これを受けたかのように、11月20、大阪の実験放送局は新設された生駒山頂の送信所からの放送に切り替えられた。、このときから出力は5kWに増力され、関西全域で受信できるようになった。本放送に必要な最低限の設備は整い、免許の基準となる法律も整備された。しかし、予算が決定していないため、郵政省も予備免許を下ろすことができないのだ。
 東京での状況は、さらに熾烈なものだった。
 東京の実験局は、元をたどれば1940年の「幻の東京五輪」中継を目標に研究が始められた世田谷・砧の放送技術研究所(日本放送協会の関連施設)の実験放送局であったが、戦争によって研究を中断。戦後も軍事レーダー研究に転用される恐れがあるということで1945年10月にGHQから研究活動が禁止されたが、熱心な交渉によって8か月後に禁止が解かれ、まだ焼跡も癒えきらぬ1950年に、実験放送を再開することができた。この局はまさに、純国産技術によって日本のテレビ局第一号を実現するという目標を持った「執念のテレビ局」なのである。
 これに対して、民間放送側もテレビ事業への進出に強い関心を抱いていた。中でも正力松太郎氏はこの課題に全力投球であった。彼はアメリカ各方面からの支援を得て、全国各地のテレビ送信所と無線ファクシミリ局を山頂中継によるマイクロウエーブ通信網で結ぶ、新聞とテレビを結合させた情報ネットワーク事業を構想していたのだ。彼は国産技術にこだわらず、むしろアメリカから先進的なシステムを導入することに積極的であった。世の中がラジオ事業で盛り上がっている時、彼はテレビを中心とした「次世代ネットワーク」構想を持っていたというわけだが、それは彼が1951年まで公職追放処分を受けていたためラジオ事業への進出が難しかったという理由もあるだろう。
 標準方式決定の直前、テレビジョン放送第一号をめぐって、NHKと日本テレビが激しい宣伝合戦とロビー活動を行っていた。結局、予備免許の第一号は、準備に早くとりかかれる日本テレビに先に下りた。NHKは大変悔しがったが、国会の予算承認なしに具体的な事業計画を発表するわけにもゆかず、12月の議決を待たざるをえなかった。
 ラジオ放送の経験から、日本のテレビ事業は全国ネットワークを前提に構想されたといっても過言ではない。これはまさに国策レベルで支援されていた。そのため、1952年に設立された電信電話公社がマイクロウエーブによるテレビジョン中継網の建設を担った。
 しかしNHKはその完成を待ってはいられないと、急ピッチで自営のマイクロ回線網建設を進めた。早くも1952年1月には東京から大阪への一方通行の回線が完成した。つまり、東京で制作された番組を同時に名古屋・大阪でも放送できるようになったわけで、事実上の全国放送開始である。そのため1953年2月1日、NHK東京テレビジョンの本放送初日の番組は大阪・名古屋の実験放送局からも中継放送されたのである。その日から大阪・名古屋でも東京と同じ番組が見られるようになったことは言うまでもない。
 また8月には大阪→東京の自営マイクロ回線が整備され、これによって、大阪・名古屋局が撮影した映像を東京に送ることができるようになった。それまでは大阪から東京まで夜行列車で取材フィルムを運んでいたのである。大阪から東京・名古屋へ送られたのはそればかりではない。全国高校野球大会や西宮球場の試合を送るにもこの回線が使われた。

 この時期、東京と大阪・名古屋のテレビの違いは「民放があるかないか」であった。
 そして民放の有無は「地元のテレビがあるかないか」という意味でもあった。
 そもそもNHKは、戦前・戦後を通して、東京で制作された「国民向け」の番組を全国に配給し、各地では「地域向け」の番組を補完的に添える形をとっていたが、たとえば当時の大阪・名古屋の人々からみれば、そうした「国民向け番組」は「東京発の下り番組」と受け止められ、日常感覚と離れた、疎遠なものという印象を与えていたようである。スター勢ぞろいのステージ中継などがあってもそれは「東京のスター」の番組だったのだ。
 NHK大阪テレビ局は、大阪市中にカメラを持ち込んだ中継番組に力を入れて、地元にローカルな存在感をアピールしていたが、それでも、番組編成は東京からのネット番組中心であった。またNHK大阪は、開局から1957年2月まで、独自のニュースフィルム編集設備を持たず、かつ、自主的なテレビニュース枠も持っていなかったためローカルニュースを独自に放送することができなかった。このころ出来ることといえば、大阪で取材された未編集のニュースフィルムを、マイクロ回線(下り)や夜行列車で一旦東京に送って、マイクロ(下り)で東京から送出される全国ニュース枠で放送するしかなかったというわけだ。そんなわけで、東京からの配給番組が中心だったNHK大阪テレビジョンの編成には、大阪の人はあまり夢中にはなれなかったらしい。むしろ「自分たちに身近なテレビ放送があったらえぇのになぁ」という要望があったのだ。まさにそれが「五輪・ボーナス・OTV」という形であらわれたのである。

 さて、話をOTVのサービス放送に戻そう。
 11月21日のサービス放送は、11時58分のお知らせに続き正午から「OTVニュース」ではじまった。自局編集による大阪発のテレビニュース第一号である。

・11月21日(水)昼の部
テストパターンにつづいて
11.58 おしらせ
0.00 OTVニュース
0.10 ファッションミュージック(KRT発)
0.49 おしらせ

 12時10分からはKRT制作の「ファッションミュージック(30分)」。東京からマイクロ回線で送られてきた番組である。ジョニー愛田、小川洋子などが出演した。ジョニー愛田と小川洋子については資料に見当たらず詳細不明。昼の放送は49分にお知らせで終了した。

・11月21日(水)夜の部
テストパターンにつづいて
6.43 お知らせ
6.45 OTVニュース
7.00 笑劇場(KRT発)「犯人はうたがお好き」 出演 坊屋三郎、柳沢真一、深緑夏代、野々浩介
7.30 スタジオバレエ「美しきダニューブ」出演・西野バレエ団
8.00 お知らせ


 夜は18時43分からお知らせの後、OTVニュースで開始。19時からはKRT制作の「笑劇場(30分)」を放送。この日は坊屋三郎、柳沢真一、深緑夏代、野々浩介による「犯人はうたがお好き」。
 19時30分からは西野バレエ団によるスタジオバレエ「美しきダニューブ(30分)」を生放送し、20時からの「お知らせ」で終了した。

 この日、名古屋CBCテレビのサービス放送は20時からの開始で、NTV制作「ボクシング・ダイナミック・グローブ(現行の大長寿番組)」から、21時10分からのスポーツニュース、21時15分からの連続時代劇「三人三五郎」までをストレートでネットした。

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