見出し画像

ミッキー安川さんの一週間(1)

もう10年も経つと人々の記憶から抜け落ちてしまうのかもしれませんが、この番組のことは、当事者の一人として、放送史上の記録として書いておかなければならないと思います。

横浜に本社を持ち、東京・麻布台にメインスタジオを持つラジオ局・アールエフラジオ日本には、かつてタレントのミッキー安川さんが担当する番組が、最大時で週七本、合計15時間近くもありました。

ミッキー安川さんのラジオ日本での最初の番組は、ラジオ関東時代の30分番組(録音)に遡りますが、ナイターオフ期の週末の夜にワイド番組『ずばり勝負』が始まったのが1980年代前半でした。当時の新聞番組表をみると、最初はナイターオフの19〜21時台の番組からスタートし、やがて時間帯を金曜の昼間『ずばり勝負』と深夜『朝まで勝負』の二箇所に移して通年の番組となりました。2000年に入る前に金曜日の夜の番組はいったん休止しましたが『スーパーフライデー』と名を変えて復活しました。
そして2005年には日曜深夜に『雑オロジー』というロングトーク番組を始めました。
これ以外に、日曜早朝にゴルファー向けの20分番組『ゴルフ放談』、月〜木の夜中に『毎日が勝負』(月曜だけは『オレンジマンデー』に改名)が放送されていました。

2010年になくなってからは、ご子息のマット安川さんがいったん全番組を継承し、徐々に店じまいして、金曜午後の『ずばり勝負』だけに集中しています。


さて、週に七本もの番組を、ミッキーさんは、どうやって放送していたのでしょうか。私が随伴していた2008年頃の話をご紹介しましょう。

まず、一週間は金曜日の朝から始まります。朝9時頃、スタッフはラジオ日本の大会議室に集まり、まず、楽屋設営をします。楽屋は淡谷のり子さんのマネージャーを長らく務めていた山懸尭さんが中心となって進められますが、まずコーヒーメーカーのセッティングと、大量のマグカップの用意からスタートします。これは、ミッキーさんやスタッフだけでなく、この後土曜日の朝まで事実上の前線基地に訪れるさまざまな人々へのもてなしに使われます。コーヒーはミッキーさんの指定銘柄で、バニラ風味のあるハワイコナをいつも飲んでいました。そのため、週末の会議室には四六時中甘い香りが漂っていました。

同じ頃、ミッキーさんと長い付き合いのある古参スタッフが到着します。この方々は、本番中は、スタジオ脇のリクエスト受け用の黒電話にかかり、リスナーの声を書き取ったり、サプリメントの注文を受けたりします(詳細後述)。

10時が近づくと、番組マネージャーを務める青木さんが到着し、必要な資料を整えながら、東京に向かっているミッキーさんと連絡を取っています。まもなく到着の知らせがあると全員局舎玄関に出迎えます。

ミッキーさんは、会議室に直行することもあれば、編成や制作の部屋を回って、いろんな番組のスタッフに声をかけたりします。時には気に入ったスタッフに、楽屋からコーヒーが届けられます。

窓側の大きな椅子に腰掛けた後、全員着席して顔あわせをします。この時に全員の前にコーヒーが配られるため、会議室のある二階全体にバニラコーヒーの香りが漂います。ミッキーさんが会議室にいるときは、必ずドアは開けっぱなしにしているからです。

11時頃になると、ゲストの論客が到着します。ゲストが政治家の時だけはドアが閉められ、時にはスタッフを外に出して密談することもあります。ここでは、放送で言わないレベルの情報が交換されていたようです。

また、日によっては、番組に付き合いがある演歌歌手の皆さんが差し入れを手にスタジオに入ります。この方々も、到着すると、まずコーヒーの接待を受けます。

ゲストとの打ち合わせが終わると、アシスタントとの打ち合わせになりますが、ここでは番組冒頭のコーナーで取り上げる新聞記事のチョイスが行われます。アシスタントが次々選ぶ記事を『違う!』『ダメ!』と次から次へと撥ね『ホントにろくな記事を選ばねえなぁ!』と叱られながら数本選び出します。

この時点では、ゲストには昼食が出されます。ミッキーさんが横浜から来る際に麻布のニューサンノーホテル(米軍基地の一部)で大きなイタリアンサンドイッチを買ってきてくれることがよくありました。これはスタッフが代わりには買いに行けません。アメリカ軍のIDカードがないと買えない品物だからです。

昼12時半に『ずばり勝負』がスタート。1時からニュースを挟んで2時半くらいまでがゲストとの対談。ここにリスナーからの電話、メール、ファックスが殺到します。ミッキーさんはアメリカ式の『フォーン・イン』スタイルのリスナー参加型政治討論番組を本格的に実現した最初の一人です。

二時半以降は、サプリメントの宣伝を挟んで、演歌歌手をゲストに雑談を楽しむ時間がありました。以前は四時に終了していましたが、のちに三時終了になりました。

放送終了後、ミッキーさんはスタッフと共に毎回いろんな場所に出かけます。時に、高速道路を飛ばして、千葉県の外房方面までまだ行き、砂風呂に入ってからリスナーと食事会をして東京に戻ることもありました。また、茨城まで車を飛ばして、スポンサーに会いに行ったり、講演会に出たりすることもありました。休憩することはありません。用がないときはサンノーホテルで、知り合いとあったり食事をしたりすることが多かったと思います。もちろん、横浜のご自宅に一旦帰ることもありますが、そういうときは、ついでに横浜市内に用事がある時で、中華街やみなとみらいの高級ホテルにでかけて人に会うことがよくありました。

夜9時を過ぎた頃に再びミッキーさんとスタッフ、歌手の方々が会議室に集結します。ここで全体構成などを確認し、三々五々、本番までスタンバイに入ります。

10時半くらいには、夜のゲストが到着します。夜の場合は密談になることは少なかったように思います。

ゲストと軽く打ち合わせをした後、ミッキーさんはスタジオに入り、日曜日早朝の『ゴルフ放談』の収録をします。台本、打ち合わせなしの一発録りで20分番組が出来上がります。季節や競技シーズン、選手の活躍にあわせた話題で、毎回きちっと結末をつけた正統派のストレートトーク番組でした。

11時半、または0時に本番スタート(時に変更あり)。冒頭から約90分は、CMなしのノンストップで対談。途中、リスナーからの大量の電話、ファックス、メールがスタジオに入り、ゲストがそれに答えます。

二時台以降は歌手が中心になるバラエティの時間帯ですが、よく、リスナーと生で電話をつないだり、深夜営業のバーにつないで宣伝させたり、時には人生相談にのることもありました。また、ミッキーさんの仲間のミュージシャンやコメディアンがスタジオに来てお祭り騒ぎになる事もありました。スタジオライブもありました。

三時台から四時台半ばまで、ミッキーさんは休憩することがありました。そんなときは防音の効いたとなりのスタジオに折り畳みベッドを持ち込んで寝ていましたが、大抵は途中で番組が気になって、突然スタジオに顔を出すこともありました。本当に寝ていることは少なかったと思います。

おなじみ『ミッキー音頭』とエンディングテーマで番組終わり。すぐに解散して、ミッキーさんもご自分の車で横浜まで帰ります。

この後生放送は日曜深夜ですが、土曜日に講演会や取材、ミーティングが行われることもあり、随伴スタッフは朝から夜まで行動を共にすることがよくありました。

日曜日は、ニューサンノー名物の『サンデーブランチ』に、よく連れて行ってくださいました。これは仕事のほかですが、気は抜けません(笑)。アメリカ関係のお仲間に挨拶をしたり、親善交流に余念がありません。

午後、一旦解散しますが、夕方七時までには会議室に入ります。ニューサンノーがないときは夕方五時に会議室入りします。

ここから夜10時過ぎまでは、特に何もありません。食事以外は。スタッフは用がない限り、食事に同行させていただきました。インドカレー、ラーメン、ニューサンノーのレストラン、時には横浜まで足を伸ばして、奇珍や富士屋といった昔ながらのおなじみの店に行ったり、塩サウナに入ったりもしました。番組についての打ち合わせなどは一切ありません。

10時過ぎに会議室に戻り、月曜放送の『オレンジマンデー』の収録。この番組は、ジャパンローヤルゼリーの『薬蜜本舗』が提供する天然ハチミツ紹介の専門番組です。これも一発どり。

11時半に『雑オロジー』本番開始ですが、準備といえば選曲だけ。事前に打ち合わせはまったくなく、ギリギリまで会議室で雑談し、冒頭一曲目が鳴り始めてから悠々とスタジオ入りする、という番組でした。

しかし、何の用意もないのに、ミッキーさんは、いきなり30分くらい、時事問題を中心としたワンマンフリートークをして、リスナーの心を掴みます。日曜の夜なので、いつもより少ししっとりした口調です。

0時くらいから、ファックスやメールがどんどん来ます。電話はサプリメントの注文だけ。山懸さんが対応してくれます。

『雑オロジー』は、パートナーの青木さんや私がスタジオにはいるものの、基本的にはミッキーさんの独壇番組。古い横浜の思い出話がよく出て来ました。

また、お仲間のミュージシャンがスタジオライブをしてくれることもあり、リスナーからのリクエストにも応えていました。

番組が終わると一時半。二階のスタジオから三階の会議室まで階段を上る間、半世紀以上前から使われているラジオ日本(ラジオ関東)の壮大な終了音楽に全身を包まれます。

これで、金曜朝からスタートする週末の動きは一旦終わります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?