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沖縄における戦後黎明期の放送

ここでは「琉球放送局」「琉球の声」「沖縄ラジオ社(OBC)」について扱う。
但し、上記3局は戦後混乱期、占領下で設立されたものであり一次資料が少ないため、引用には注意を要す。
また「沖縄ラジオ社(OBC)」の名称については、記録によって「ラジオ沖縄」「ラジオ沖縄社」「沖縄放送社」「沖縄ラジオ社」など名称が一致していないが、当面はこの局が開局告知の新聞広告で打ち出した「沖縄ラジオ社」と、そこに示された略称「OBC」を並記する。


「琉球放送局」「琉球の声」「沖縄ラジオ社(OBC)」 

 1945年第二次世界大戦で甚大な戦禍を蒙った旧・沖縄県は、領土返還で日本国に復帰するまでのあいだ、米軍直轄、そして軍政府を経て米民政府の統治下におかれた。
 戦後、沖縄における最初の放送局は、5月に出力250wで開局した米軍の野戦放送局WXLHであった。これは戦線とともに太平洋を北上してきた部隊附放送が上陸したものであるが、正規のコールサインを持っていた。のちにAFRS局の一つとなる。
 その後、新聞、演芸の復活が推奨され、1949年には「時期尚早」の声を受けながら日本語による短期間の試験放送を実施。1950年から本放送を開始した。
 そして、軍政府→民政府→財団→民間と形をかえながら免許と事業は継承され、1955年、現在の「琉球放送」に受け継がれた。


AKAR・琉球放送局

構想段階
1947年3月:沖縄民政府文化部、放送局設置計画案を沖縄民政府部長会議に提出
計画作成の中心となったのは沖縄民政府文化部芸術課長の川平朝申氏
朝申氏は戦前、台湾総督府情報部に勤務
台北放送局で児童番組の制作、演出なども担当
1946年暮れ、台湾から引き揚げてすぐに沖縄民政府入りし、芸術課長に就任
文化部長・当山正堅は川平氏の岳父
弟・朝清氏(またの名を カビラ・キヨシ)はAKAR初代アナウンサー
1980年代以降活躍しているジョン・カビラ、川平慈英氏は朝清氏子息。
提案は知事の決裁を経て軍政府に提出、承認された
副知事の又吉康和には「経済的にも時期尚早」を理由に反対された。
朝申氏は軍政府の教育部長・スチュアート少佐や情報部長・ハウトン大尉などと個人的に親しかった
1947年9月:新局建設費用を1948年度のガリオア資金から支出することに決定
沖縄の米軍司令部(RYCOM/ライコム)代表、新放送局設置の件でGHQ民間情報教育部(CIE)代表と話し合い
出力50kWで全琉球列島をカバーする構想
1948年2月:フィリピン・琉球軍司令部(PHILRYCOM)、新局設置調査のための専門家派遣連合国軍最高司令官(SCAP)に要請
3月、東京から専門家のホワイトハウス氏が沖縄に派遣される
1948年3月:PHILRYCOM、新局のコールサインや周波数割り当てをSCAPに要求
ホワイトハウスの提案により、不要になった米軍や日本製の放送機器を改造すれば出力500Wの暫定局の設置が可能、と示唆
小局の建設で経験を積めば、将来出力の大きい局を建設するのにも役立つ
結局、戦災で沈没した船舶の無線機などから資材を調達することを構想した。
実際それをどれほど用いたかどうかは不明。
1948年3月:川平朝申氏、沖縄軍政府情報部に出向
事実上の移籍
出向要請の理由は「沖縄歴史パンフレットの編纂」
沖縄民政府の機構改革により文化部は解体された
朝申氏はこの際、辞表を提出
軍政府のハウトン情報部長が慰留したが、結局、移籍という形をとった
放送局設立を提言し、ハウトン情報部長、スチュアート教育部長、ドファーメット通信部長とも協力を約す
Callsign割当
1948年4月:極東軍司令部(CINCFE)、暫定局設置に異議なしとの意向を表明
PHILRYCOMに対して。
要求通り、コールサインや周波数に関する手続きが進行中
1948年5月:CINCFEはPHILRYCOMに対して暫定局建設を許可
資金、機材、要員が現地で間に合うならば、との条件付き
コールサインAKAR、周波数1400kc、出力500W
当時、アメリカは軍関係の暫定的な放送局に「AK」で始まるコールサインを割り当て
新局設置のために計上したガリオア資金は電池式ラジオの購入に当てるよう指示
大出力局設置は当分見合わせ
1948年4・5月頃:川平氏に「沖縄歴史物語」制作への協力依頼
米軍放送局WXLHのジェームズ・N・タール放送部長からの発注
川平氏も住民向け放送局開設のための協力を持ちかけ、喜ばれる
1948年11月:軍政府の情報部と文教部が統合され、情報教育部発足
1948年12月:軍政府通信部、AKAR・琉球放送局設立計画を公表
1949年1月:WXLH放送部長のタール氏、軍政府情報教育部の情報課長に就任
タール氏はジャーナリスト出身
開局準備部門を軍政府情報教育部に一本化
軍政府通信部と民政府文教部に分かれていた
開局準備と資材調達
タール情報課長、放送局用地として沖縄中部の具志川村川崎の栄野比を選定
旧米海軍軍政府が接収、使用していた瓦葺き民家3棟(35坪余)を局舎として利用
海軍下士官クラブ→送信施設
海軍軍政府副長官大佐宿舎→職員宿舎
海軍将校クラブに接収されていた比嘉氏宅→スタジオ
放送機材は米軍払い下げのものを改造、修復して活用
渡口輝夫氏、恩河朝真氏らが担当
渡口輝夫氏 通信部所属、旧沖縄放送局技術員
恩河朝真氏 元熊本放送局勤務
500W送信機2台を装備
調達難から沿岸の沈没船からの調達も行われていたらしい
1949年春:NHK?より放送資料、カッター式録音盤が送られる
ディフェンダーファー副部長から「琉球語による放送をせよ」という指導が下る
説得し、撤回。
ミネソタ州から紙製録音テープとテープ録音機が届く
日本本土ではまだ使用されていない、当時最新型のもの
軍政府、ラジオを無料配布
テスト放送前後に日本製ラジオ657台、米軍野戦用ラジオ171台を情報センター、学校、図書館に
情報センターは後の「琉米文化会館」
試験放送
1949年5月16日:「AKAR・琉球放送局」テスト放送開始
最初のアナウンサーは、川平朝申氏の弟・川平朝清氏
テープ録音による「かぎやで風」を最初に放送
幸地亀千代夫妻の演奏。「御前風」など祝祭事用の古典音楽を収録。
第一声は「This is AKAR, Ryukyu Radio Station... こちらはAKAR、琉球放送局です...」
記録によっては「こちらはAKAR、琉球の声です...」とある。
出力は500Wが認可されていたが、実際には250Wで放送
テスト放送は1週間で中止
同じ形式の テストが3回実施されたとみられる
受信機の普及率が低く、一般に受信されない、というのが公式上の理由だが
タール氏の一時帰国が直接的な要因(証言)
1949年10月:軍政長官にジョセフ・P・シーツ少将が就任
のちにその善政を称えられる
1949年11月21日:民政府、上之山小学校から天妃小学校校舎に移転
それに伴い、軍政府が上之山小学校に移転開始
定時放送開始
1950年1月21日:「AKAR・琉球放送局」定時放送開始
1400kc 500W
放送時間は18:00~20:00の2時間(約1ヵ月間)
番組制作は沖縄南部の知念にあった軍政府で行い、録音テープを毎日ジープで運んだ
1月21日から31日まで「シーツ長官感謝芸能大会」の実況録音を放送
大会の解説は朝申氏
途中にNHK番組を中継放送
1950年2月1日:14:00から開局式
キャンプ・クエ(桑江)の軍政長官公室で、シーツ軍政長官、志喜屋孝信知事などが出席
式の模様は18:00から録音で放送
1950年2月24日:天気予報の放送開始
1950年3月:放送時間を18:00~22:00の4時間に拡大
うち1時間はNHKの学校放送の番組に充当
放送時間はさらに23:00までの5時間に延長
間もなく10:00から1時間の子供向け番組も開始
1950年当時の番組編成は、75%がNHK番組の短波中継の録音、25%が軍政府情報教育部(OKI-CIE)の演劇・映画・放送課で企画・編成したもの
1950年8月:軍政府、那覇市上之山小学校に移転
栄野比のスタジオとの連絡がやや便利に
12月には送信所が那覇の楚辺高台に移転
1950年5月22日:琉球大学開学
1950年:軍政府、本格的放送網設置(放送番組播頒機構)を計画
親子ラジオによる受信網拡張と放送ネットワーク建設を同時に推進
出力3kWの中央局を沖縄本島に、500Wの中継局を宮古と奄美大島に設置
10月にNHKから担当者を招き、1ヵ月余り現地調査
中央局建設地は首里の琉球大学構内、中継局には奄美大島の赤尾木、宮古の平良を選定
1950年12月15日:琉球列島米国民政府設立
従来の軍政府を改称
1951年1月10日:米国民政府、民政布告第30号「琉球大学」(琉球大学基本法)を公布
琉球大学に放送局の設置を規定
第1款 総則
 2、目的。本学の主要目的は芸術、科学、及職業に関して男女学生に高等学校教育以上の教育を施すことにある。本学は又軍事占領の目的に沿うて民主主義国家の自由即ち言論、集会、訴願、宗教及出版の自由を増進するために、琉球諸島の成人に一般的情報及教育を普及する。
 3、権能。上述の目的を達成するため本学は予算の範囲内で左記の権能を行う。
  ハ、ニュース、娯楽、講演の伝達普及のため放送局、映画、印刷、拡声装置及その他の施設を経営する。
1951年1月13日~18日:発電機故障のため放送休止
1951年2月12日:琉球大学開学記念式典
記念式典の正式名称は琉球大学贈渡並に学長任命式
式典の模様をAKARが実況放送
川平朝申氏の回想記『終戦後の沖縄文化行政史』には、氏が琉球大学ラジオ放送部長に任命されたとあるが、『琉球大学創立20周年記念誌』にはそのような役職は記載されておらず、同誌の開学当初の職員や旧職員リストにも氏の名前はない(ただし、同誌には氏が寄せた「琉球大学の誕生とその頃の思い出」が掲載されており、その中には「琉球大学放送部長」となった旨が記されている)。大学側では氏を琉大職員の一員とはみなしていなかった可能性が高い。


KSAR・琉球の声

1951年7月:米国民政府、放送網設置に着手
豊見城村嘉数の高台に送信所、琉球大学構内にスタジオを建設する準備
宮古、奄美大島中継局の用地の測量、設計、機材購入等も
1951年9月12日:米国民政府、布令第50号「琉球大学財団」を公布
「琉球大学ファウンデイション」(琉球大学財団)と呼称する法人団体を創設
1952年4月1日:琉球中央政府発足
1952年4月6日:琉球政府管轄の無線局の呼出符号、アメリカ式に変更
船舶局等、呼出符号が英4文字だった局は、「KS+英2文字」に
放送局は呼出符号の変更が遅れたかもしれない(琉球政府広報に記載なし)
1953年1月:新局の放送設備完成
スタジオは那覇の米国民政府庁舎から首里の琉球大学構内、送信所は豊見城村嘉数へ移転
1月20日前後に試験放送完了
1953年2月1日:「KSAR・『琉球の声』琉球放送局」開局式、放送開始
英称はRyukyus Broadcasting System(琉球放送局)、‘Voice of the Ryukyus’(「琉球の声」)
コールサインはKSARに変更
740kc(当初は580kcの予定) 3kW
2月1日14:13、デイビッド・オグデン民政副長官によりスタジオのスイッチが入れられ、オグデン副長官自身により第一声
「This is KSAR. This is KSAR, the Voice of the Ryukyus...」

沖縄ラジオ社(OBC) 

開局直前の新聞広告には「沖縄ラジオ社」とあるが、名称はまちまち。
1954年3月20日:琉球大学財団、沖縄放送通信社(松岡政保社長)と放送施設の賃貸契約を締結
5月1日放送開始の予定
1954年4月1日:「琉球の声」琉球放送局、米国民政府民間情報教育部から琉球大学財団に移管
放送施設を琉大財団に譲渡
1954年4月:沖縄放送通信社、ラジオ沖縄社と改称
英称はOkinawa Broadcasting Corporation (OBC)
社長仲宗根仙三郎氏(琉球新聞社社長)に交替
琉球新聞社は後に沖縄日報社と改称、程なく倒産
1954年4月5日:川平朝申氏、琉球放送局長を解任琉球放送局の商業放送化を新聞記者に公表したため米国民政府は琉球放送局の民営化を秘密裡に進めようとしていた

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