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日本の放送百年百人 14 『最初の人と最後の人』

  戦前・戦中、日本はアジアと太平洋に広大な海外領土や植民地、傀儡国家を持っていたが、そこにはそれぞれ放送網が敷かれ、東京政府からの意思伝達と日本国への結束強化、そして、さらにその周辺へのプロパガンダの役割を果たしていた。

朝鮮放送協会、台湾放送協会、満洲電電の放送部などはいずれも日本放送協会から独立した組織ではあるが、人事や現業においては密接な関係があり、事実上日本放送協会の傘下にあった。
また、これとは別に、日本放送協会は信託統治領や海外占領地、前線に仮設・常設の放送局を設け、その地域の住民向けに東京発番組の中継をしたり、東京からの国際放送の中継業務をしたりしていた。
北太平洋のパラオ諸島は、第一次大戦の際、日本が戦勝国側陣営にあったことから獲得した委任統治領であるが、南洋方面の産業開発の拠点として日本政府はこれを重視し、また、北米を含む太平洋各地への通信中継地として利用するため、パラオ島コロール町(現在、パラオ共和国の首都である)に国際電気通信会社の施設と技術員を置いた。日本放送協会本部はコロールにパラオ放送局を設置し、編成や営業業務を行った。放送局にはコールサインJRAKが下付された。
JRAKの業務の大半は東京から短波で送られてくる二つの放送のうち、海外日本領土向け『東亜中継放送』を地元と近隣の島々に、国際放送『ラジオトウキョウ』を地元と北米、ハワイ、ジヤワ、シンガポール、そして太平洋各地に向けて再送信することにあった。また、地元向けには、東亜中継放送の合間に番組予告などの局報や島内の行事録音、島民向けの政策的メッセージを割り込ませていた程度で、開局直後を除けば本格的な制作番組はない。
しかし、それでも常駐のアナウンサーが置かれ、朝と夜のコールサイン放送や、番組予告、天気予報(開戦前日まで)などはコロールのスタジオから放送された。
海外領土の放送事業は、撤退時の資料焼却などにより事情がほとんどわからないが、JRAKについては、NHK放送文化研究所が残存資料や赴任経験者からの聞き取りで記録集がまとめられたほか、開局時に赴任した山口岩夫放送員がラジオ深夜便で思い出を語り、撤収時まで担当した立沢正雄放送員が赴任中の日記を公刊したことで、骨格が遺された。

山口岩夫アナウンサー(戦時中は国策により『放送員』と呼ばれた)は、1941年、大阪放送局の職員募集に応じ、東京放送局でアナウンサー教育を受けたのち、9月に開局予定のパラオ放送局への赴任希望者募集に応え、初代アナウンサーとして赴任した。

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その後1944年3月、戦況悪化の中、内地に転勤。終戦まで大阪放送局で、中部軍司令部の空襲警報業務を担当した。ラジオ深夜便では、空襲警報放送についてのインタビューの際、パラオ放送局についても語られた。


立沢正雄アナウンサー(放送員)は1939年11月に採用試験に合格し長野放送局に赴任。1940年4月、アナウンサー試験に合格し、同アナウンサーとなり、1944年5月にパラオ放送局に赴任した。

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立沢さんの赴任直後、日本からの物資を積んだ輸送船が沈められたため、徐々に食糧等の枯渇が始まった。さらに空襲がはげしくなるにつれて島で生産していた食品も食べ尽くされていった。
1944年7月にはアメリカ太平洋艦隊の第3次パラオ大空襲によって送信施設が破壊され、7月中旬から放送不能。7月24日に南洋庁から引き揚げ勧告があり事実上パラオ放送局は停止。秋にかけて職員も徐々に召集・徴用され、放送局を復元することは事実上困難になった。
9月、立沢さん他残りの要員も徴用され、パラオ放送局は名前だけの存在となる。終戦の翌年帰国し、2月23日に報告と経費精算を終え、正式にパラオ放送局への残務が終了した。


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