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日本の放送百年百局 14 『ラジオ長崎(JOUR)』


 長崎平和放送協会の誕生~ラジオ長崎放送開始まで

 長崎県は沖縄県と並ぶ「国境に接する海洋県」の一つであり、かつ、複雑な地形を持つため、古来、際立った文化的特徴を持つ産業構造・産業文化を開花させてきた。
 「国境に接する海洋県」という点から言えば、大陸に近く、近くに複数の多島海を擁していることで、古来海運技術が発達し、これが中世以来アジア大陸との面的な交易(特定ルートや免許路線によらない対岸コミュニティ同士の民間交易)を栄えさせる基盤となった。そして、中世以降、中国やヨーロッパ諸国との交易を専掌した幕府が、長崎を天領(幕府直轄地)に指定したことで、富と情報の高度な蓄積がおこなわれるようになり、その結果、堺や博多と並ぶ、商人優位の港湾都市に成長した。明治維新以降は、その情報集積と財政力を活かして重工業と国際貿易に積極的な投資を行い、日本屈指の富裕都市の仲間入りをした。
 一方、複雑な地形を持つ県という点からいえば、現在「長崎県」とされている地域には複数の湾(内海)があり、これらがそれぞれ独立した湾岸文化をはぐくみ、かつ、急峻な山間地帯が県を大きく南北に隔てたことで、その結果、県内に複数の富の集積地すなわち商圏中心を持ち、それらが特徴豊かな産業経済活動と、そのの独立性を支える要因となった。それにより、国際港として発展した長崎市を取り囲むように、佐世保、平戸、大村湾沿岸、諫早、島原といった特徴の際立った都市を擁する「商圏ネットワーク」的な県が形成されることとなった。
 一方、長崎県は歴史的にいくつもの悲劇を抱えた県でもある。ヨーロッパとの交易開始によりキリスト教との接触が盛んになり、経済侵略から文化侵略、政治侵略へとすすむ事を恐れた中央権力は芽生え、根付きはじめたキリスト教を禁教とし、主に離島の信者に対して、大規模の虐殺を含む、見せしめ的な弾圧を幾度も課した。この弾圧は明治以降も続き、何十世代にもわたる潜伏的信仰という残酷な状態を生んだ。この状態が、多くの人々の犠牲を生んだことは言うまでもない。また、第二次世界大戦中は軍港として繁栄を見せた裏側で、中国や朝鮮から徴用された徴用工に対する搾取的な雇用がおこなわれ、その犠牲は戦後長らく隠蔽されてきた。さらに、第二次大戦の終了を決定づけるきっかけとなった原子爆弾は、長崎という地域のその後の国際的な立場や考え方に大きな影響を残した。また、市内に複雑な立体地形を持つ長崎市は、爆弾の影響を直接受けた地区とそうでない地域を分け、生と死が近隣しあう独特の被害状況を生んだ。さらに、その後原爆症が長年、複数世代にわたって人々を冒し続けたことは、長崎県人、広島県人、および、そこに出入りしていた人々の平和に対する意識を強く定着させる結果となった。
 加えて、地理的に自然災害の影響を受けやすく、戦後だけみても、諫早大水害、長崎大水害、雲仙普賢岳の噴火など、歴史に残る規模の被災を経験している。
 このように、数百年にわたって栄華のと悲劇の両極を経験した「長崎県」は、多様かつきわめて個性的な芸能と祭りを生んだ。そして、それを支える互助システム、芸術文化、食文化などが、通年観光県としての性格を与えたともいえる。
 各都道府県にはそれぞれ代えがたい独自の文化があるが、長崎、沖縄、北海道など大きく国境に接し、かつ地理的に際立った特徴を持つエリアは、突出したものを生み出し、当然、メディアもそれに対応した独特の性格を備えることとなる。

●ラジオ放送局設立への機運
 長崎放送の前身の一つである「ラジオ長崎」は、戦後まもなく、市民のなかから生まれた。
 長崎市在住の無線技術者・鶴川武は、かつて戦争推進の武器に使われたラジオを平和推進の道具にしたいという願いを込め、1950年2月27日「社団法人長崎平和放送協会」の設立を申請した。しかしこのとき政府はまだ戦後の放送政策について議論を進めている最中であり、民間放送局を推進するための法整備ができていなかったためいったん保留され、いわゆる「電波三法」が成立するのを待たなければならなかった。
 申請者の鶴川武は、1915年2月4日熊本県に生まれ、中野高等無線電信学校(現・国際短期大学。衆議院議員・高木章が設立。当時需要が急増した無線電信技術者養成に応えた)等で無線技術を学び、戦前は中国に渡り上海ラジオビーコン局に勤務し、戦後上海から引き上げ、申請の年、東邦通信機株式会社を設立したところであった。
 長崎にはもう一つ、積極的に放送局を設立しようとする動きがあった。それは長崎商工会議所を中心としたグループで「ラジオ長崎」という名称で開局を推進していた。「ラジオ長崎」には当時の商工会議所会頭・脇山勘助(長崎電気軌道社長)を筆頭に、菅野一郎や浅野金兵衛(長崎高等商業学校教授)など、地元の有力実業家十数人が発起人に名を連ねた。しかし、1950年3月11日に長崎商工会議所が全焼し、関係書類が消失したため一時中断された。
 「電波三法」成立後、1950年10月15日、長崎市銅座町の精洋亭ホテルで合同発起人会が開かれた。このとき「株式会社長崎平和放送協会」発足させた。このときは代表に脇山勘助を選ばれ、資本金3,500万円で、出力3kWの放送局を設立することを決めた。
 しかし、電波監理委員会は「NHK長崎放送局と同じ500Wが望ましい」と勧告した。長崎平和放送協会は「500Wでは県内全域をカバー出来ない」と突っぱね、1kWに変更して再度申請した。
 同じ頃(1951年2月)諫早でも免許申請があった。申請者はこの年6月に県知事に就任する西岡竹次郎である。長崎平和放送は政界有力者の斡旋で西岡と話し合いを持ち、長崎平和放送協会への合流了解と発起人への参加を得た。
 こうして開局準備のための体制ができあがった長崎平和放送であるが、新聞社を母体としないという点は異例であった。大正時代から全国に放送局申請をだしていた朝日・毎日の両新聞社も、福岡には注目してはいたが長崎への進出には積極性を見せず、設立支援が具体化することもなかった。地元財界・商工界による自主的経営といえば画期的ではあるが、戦後の混乱期でのスタートでもあり、設立資金の調達もなかなか進まなかった。
 1951年4月21日、民間放送への第一期予備免許には「申請内容の不備」を理由に保留とされた。遅々として進まない状況であったが、11月に長崎敬愛界の重鎮であった中部悦良が追放解除によって復帰し、長崎商工会議所会頭に再び就任したことで流れが変わった。12月27日、予備免許が交付されたが、結局、郵政省の求める出力500Wでの免許となった。
 ただ、予備免許の交付を受けて開局準備を始めてはいたが、資金不足は相阿変わらずであった。長崎県、長崎県議会をはじめ、県内各市、市議会等に出資請願の陳情をあげても色よい回答はなく、落成期限は迫るばかりであった。結局、資本金が目標額の半分をなかなか超えないのを見て、中部悦良と大洋漁業がこれを立て替えた。
 中部悦良は、戦前、大洋漁業の前身である林兼商店に入社し、1924年に長崎支店長となり、長崎魚市で中心的な役割を果たし、その後長崎水上消防団初代組長に選ばれたのをきっかけに長崎政財界とのパイプをつくり、ながてその中枢を担う一人となった。戦後も長崎の産業復興のため、商工業、運輸、流通、食糧、観光などの分野で公共性の高い企業の新設には、自ら役員参加、投資などをして積極的に支援した戦後復興の功労者の一人だ。
 

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●「ラジオ長崎」開局へ

 資金調達がうまくゆかなかった原因の一つに、想定されていたサービスエリアの狭さがあった。これは郵政省が500wと定めたことに基づいているのだが、先行するNHK長崎第一放送(500W)の前例をみても第二の人口密集地域である(佐世保を中心とする)県北地域での受信状態の悪さは予想されていた。NHKは佐世保に放送局を持っていたが、長崎平和放送には、当然、中継放送局を設けるだけの経済力はなかった。
 さまざまな悩みを抱えながら開局準備がすすめられ、長崎商工会議所の1フロアを借り受けて本社とし、会社設立時の社員は十人、開局時の現場スタッフを入れても三十人ほどの小さな規模での運営となった。
 1952年9月12日に登記が完了。これをラジオ長崎ならびにNBC長崎放送は創立記念日としている。
 8月23日の会社設立公開で決定した、設立時の役員は以下の通り。

 鶴川 武 (長崎平和放送発起人、ラジオ長崎初代技術部長)
 出利葉倭 (でりはやまと 日本物産専務)
 西岡ハル (長崎民友新聞社社長)
 脇山勘助 (長崎電気軌道社長)
 菅野一郎 (長崎商工会議所専務理事)
 渡貫良治 (長崎日日新聞社社長)
 田川 務 (長崎市長)
 田中丸善重(佐世保玉屋デパート社長)
 中村 達 (なかむらとおる 弁護士)
 中山民也 (長崎国際観光常務)
 岡部 実 (岡政デパート社長)
 岡本直行 (長崎県議会議長)
 川添 隆 (佐世保魚市場社長)
 隈部登馬男(長崎県議会議員)
 山田博吉 (山田屋商店代表)
 安福秀次郎(中央舘チェーン社長)
 山野辺幸家(長崎中央青果社長)
 増田重吉 (丸徳漁業社長)
 馬渡謙蔵 (長崎県議会議員)
 藤木喜平 (浜屋デパート社長)
 藤井友市 (佐世保商工会議所会頭)
 古川箴一 (ふるかわしんいち 島原商工会議所会頭)
 小林知一 (長崎県町村会長)
 佐藤勝也 (長崎県副知事)
 宮崎俊蔵 (長崎自転車振興会副理事長)
 溝上太郎 (長崎市議会議長)
 渋谷亮三 (長崎市議会議員)
 平山久之助(大村商工会議所会頭)
 広石喜三郎(長崎県興業協会会長) 
 諸谷義武 (長崎市議会議員)
 瀬頭彌八 (せとうやはち 諫早商工会議所会頭)

 1952年9月1日、第一期新入社員を迎えた。満州電電(放送局)や日本放送協会、毎日新聞社などを前職とする19名が入社し、アナウンサーには8人が採用され、製作スタッフは研修のためラジオ神戸(JOCR)に派遣された。
 前述の通り長崎は祭礼や芸能が盛んな土地であるが、神戸で研修を終えたスタッフは早速県内の祭りや芸能行事、スポーツの試合中継などを取材し、開局後に備えた。
 こうして雇用も始まり、固定的な出費が始まった長崎平和放送であったが、開局を前に資本力の強化を図ろうと長崎県議会に出資を請願したが却下され、出力増強によるサービスエリア拡大なども含めて、県内影響力の強化が課題として遺された。
 12月1日、大企業に対する営業拠点ともなる東京支社が開設され、同日社名が「株式会社ラジオ長崎」に変更された(18日登記完了)。送信所の建設は当初の予定地から変更され、長崎市大浦元町ですすめられた。12月27日にアンテナが落成し、竣工式が行われた。この間、公募でラジオ長崎の社章が、そして西森守攻作詞・伊藤英一作曲による「ラジオ長崎の歌」が制定され、広告主の募集もはじまった。
 しかし、新聞社を母体とする民放他社と違い、自前の媒体を全くもたないラジオ長崎は、開局告知にも苦労し、パンフレットと宣伝カー、そして社員の手足と口が頼りという状況であった。
 1953年2月には長崎日日新聞で特集記事が組まれ、本放送がまもなく始まることが大々的に告知された。
 2月1日、大浦送信所の火入れ式後、10日間にわたって試験電波が発射されたが成績は好調で、東シナ海を操業中の漁船から長崎無線局を通じて「感度良好、雑音ナシ」との受信報告が入り社員を喜ばせた。

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 2月15日、桜町の長崎商工会議所内にスタジオが完成。23日に本免許JOURが交付され、翌日からサービス放送が始められた。27日には街頭録音もおこなわれ「ラジオ長崎に何を望むか」という質問のもと、一般市民の声がそのまま電波に乗せられた。
 2月28日には三菱会館で「ラジオ長崎開局前夜祭」が県民3000人を招いて開催され、その翌朝すなわち3月1日の朝九時三十分、中部悦良社長が火入れボタンを押すと梅原司平作詞作曲の「アンゼラスの鐘」のメロディが電波に乗り、曲とともに「JOUR,JOUR、こちらは皆様のラジオ長崎でございます。ただ今から周波数1230キロサイクルでお送りします」というアナウンスが放送された。社史には、このアナウンスが、中部社章を筆頭に、社員全員が一人ひとりマイクの前に立って繰り返しアナウンスされたという。このような開局アナウンスの形は前にも後にも例がない。

 その日から休みなく定時放送が行われているが、ニュース放送には大変苦心したようで、新聞社から無償で提供された報道素材をどのように整理して放送するかという段階から自前で確立しなければならなかったという。その後の報道重視の姿勢につながるものとしてとらえてみると面白い。

(「ラジオ長崎」開局前史ここまで)

長崎放送はこちら   https://note.com/davekawasaki/n/n5f29d68063b3


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