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日本の放送百年百局 15 『ラジオ佐世保(JOMF)』

  ラジオ佐世保は、戦前、軍港として独自の経済圏と経済力を有していた佐世保市に誕生した民間放送局である。 いかに当時の佐世保市が財政的、政治的に力を持っていたかという象徴だと言っても過言ではないだろう。 
  ただ、長崎県における佐世保市(または県北地域)の地理的事情も関係した。 長崎県は県南と県北が山間地によって二分されており、戦前から長崎市の放送が入りにくく、佐世保を含む県北は難聴取区域として取り残された。

  当然、ラジオ長崎は佐世保に中継放送局の開設を目論んでいたが。 それより早く佐世保の有志が開局計画を立てて申請したため、九州電波管理局が間に入って「近い将来合併する」ことを前提としてラジオ佐世保に免許をおろしたのだ。
ラジオ長崎からみればこれは渡に船であった。 すなわち、苦労を伴う開局資金調達を軽減することができたからである。 しかもラジオ佐世保には地元新聞社のバックアップもあった。
一方、ラジオ佐世保の計画は非常に堅実なもので、そもそも全時間を自社制作で賄うことは考えていなかった。 当初は「一日一時間程度佐世保市民向けの番組を放送できれば、あとはネット番組だけでいい」という大変割り切った編成を考えていたようだ。 そのため、開局時、局内にはスタジオが1つしかなく、あまりの不便から、のちにそれを区切って2つにしたというほどである。

  設立時の意欲的な動きに注目したい。「長崎放送十年史」によれば、ラジオ長崎開局に先立つ1953年1月頃、既に佐世保に新しい民放局ができるという話が長崎にもきこえていたようで、同年3月1日にラジオ長崎が開局するや、早くも6月2日にはレストラン玉屋で設立発起人総会が開かれ、発起人として九州相互銀行、親和銀行、佐世保庶民信用金庫、西肥自動車、佐世保青果、マツバ味噌醤油、梅村組、佐世保船舶工業、佐世保海運、佐世保魚市、西九州倉庫、佐世保玉屋百貨店、森鉄工所、中央館チェーン、掘礦業、佐世保商工会議所、佐世保興業協会、九州時事新聞社所属の各氏及び佐世保市長、佐世保市議会議員3名と、錚々たる面子が顔を揃えた。
  一方、難聴地域であった県北へのサービスエリア拡大によって営業力を高めるため1953年6月18日、ラジオ長崎が佐世保中継局の設置を申請した。
  10月20日、資本金850万円で(株)ラジオ佐世保が創立され、放送局設立の申請をしたが、11月28日には一県一局を原則としたい九州電波監理局がラジオ長崎との競願調停試案を提示。翌1月12日、長崎市長と佐世保市長の連名による合併斡旋勧告がなされた。
  しかし、ラジオ佐世保への期待と勢いは止まることなく、開局前にも関わらず、放送劇団員の募集に300人が応募。劇団第一期が採用された。また、開局前から「ラジオ佐世保友の会」が創設された。これは1000名規模のリスナーズクラブであるが、全国的な流れとはいえ、この規模のサポーター組織は大都市でも例を見なかった。

ラジオ佐世保 JOMF 1400kc 500W

  1953年11月頃、一つの県に二つの民放があるのは文化的・経済的・政治的にもロスが大きいという話が表立って語られるようになり、雲仙での両局経営者・電波管理局による会談のあと、11月28日には九州電波監理局から調停案が提出され、これにより対等合併が示された。開けて2月4日にはラジオ長崎取締役会でラジオ佐世保との合併が決議された。かくして翌2月10日にはラジオ佐世保取締役会でもラジオ長崎との合併が決議され。それを受けて2月16日にはラジオ長崎取締役会で合併覚書と合併契約書案を承認。18日にはラジオ佐世保取締役会で合併覚書と合併契約書案を承認、両社の合併調印が行われた。

  この際、ラジオ長崎が佐世保中継局申請を取下げ、3月3日にラジオ佐世保に予備免許が交付され、16日に本免許が下された。この時コールサインとしてJOMFが交付されたが、通常、支局となる放送局のコールサインは親局と繋がりのあるものが付与させるところを、佐世保にも親局並みのコールサインが与えられたことを重視しておきたいと思う。
  3月20日には局舎完成。25日には4坪の小さな仮スタジオでサービス放送が始められ、4月1日からラジオ佐世保が本放送を開始した。

  初期の番組として『お好みホール』『日米音楽の夕べ』『娯楽ホール』、『郷土民謡集(佐世保、平戸、大村)』『記者の手帖』『子供歌合戦』、『マイクの話題』『その日その日』『希望音楽会』『仲よしよい子』などが挙げられているが、長崎からのネット番組に勝るとも劣らぬ人気であったという。

日本初のマイクロネット「KNS」

   ラジオ長崎もラジオ佐世保も、財政的弱さをネットワークでカバーしようとした点では共通で、この合理的な考え方は、当初からネットワーク化による拡張を構想していたラジオ九州とも相入れあったようだ。

1954年4月28日、ラジオ九州、ラジオ長崎、ラジオ佐世保の3社は番組制作の合理化、効率化と内容のバラエティ性を高めるため『KNS協定』を結んだ(5月1日実施)。 この協定は、局の規模の大小はともかく、福岡、長崎、佐世保の3つのラジオ局が対等に番組の相互乗り入れを実現したという点で画期的で、時間帯によっては3局共通のスポンサードという意欲的な営業展開も行われた。 およそ4年にわたって実施され、協定番組の終わりには必ず『KNS』のネットワークシグナルが放送された。

 「KNS」とは九州K、長崎N、佐世保Sという頭文字をつないだものであるが、報道取材などで共同化をはかる一方、KNS番組の時間帯用に制作された番組については、どの曲からでも「KNS」という制作クレジットを用いることが決められた。

合併、そして長崎放送(株)設立

 1954年10月18日、ラジオ佐世保はラジオ長崎と合併し長崎放送(株)が設立された。 新役員は長崎方14名、佐世保方11名。 佐世保局の呼出名称は「らじおさせぼ」のままとされ、放送上は『NBCラジオ佐世保』と称すようになった。 この時から長崎本社は『NBCラジオ』、佐世保放送局は『NBCラジオ佐世保』、のちに開局する佐賀放送局は『NBCラジオ佐賀』と呼ばれるようになり、日本で初めて、複数の放送局共通のコールレター「NBC」をブランドネームとして持つこととなった。 この展開は経営合理化のみならず、サービスエリアの拡大によりナショナルスポンサーへのアピールにつながった結果、営業活動の拡大に貢献したようだ。

 合併後もラジオ佐世保は独自のローカル番組を制作しつづけたが「ラジオ佐世保放送劇団」や、「ラジオ佐世保放送合唱団」「ラジオ佐世保児童合唱団」、そして柳田武夫をリーダーとする専属バンド「ハーモニーメーカーズ」などを持っていたため、公開音楽番組やもラジオドラマなどもオリジナルで制作することができた。 ドラマに関しては「ロ潜一一八」(1954)「サセボ」(1955)などが芸術祭に出展され、「ロ潜一一八」は効果音のかわりに現地録音の素材を用いた点などが評価を受けた。 また、限られた制作環境であったため、ドラマの制作は一日の放送終了後に行われることが多く、エコールームのかわりに道路のトンネルが使われたり、小学校の音楽教室を借りることもあったという。 

 一方、報道に関しては3人の記者がフル稼働の状態であったそうで、デンスケを担いで積極的に録音取材をおこない、音入りのニュースを日々ローカルで放送していた。 また、市内の事務所から天神山放送所(スタジオと送信所を兼ねていた)にジープで向かう最中、佐世保炭鉱で火災発生の連絡を受け、現地でそれがボタ山の崩壊による「山津波」であることを確認(27世帯77人が生き埋め)。 放送時間ギリギリの電話送稿で、ローカルニュース番組「マイクの話題」に第一報を間に合わせることができ、 これがNHKを含む各社に先駆けた全国第一報となった。

  また、市議会議場に巨大な集音マイクを設置し、議員に『コリャーうっかりしたことは喋れんぞ』と言わしめた。

  ラジオ佐世保は東京からの放送も行なった。1956年に社会人野球チーム『オール佐世保』が長崎県代表として予選を勝ち上がった際には、佐世保市役所前で行われた壮行会を中継し、さらに7月31日に後楽園球場で行われた対『東海電電』戦を実況中継した。また、プロ野球中継については、1956年3月13日に佐世保球場で開催された『西鉄・東映』戦を実況放送したという記録がある。

  ラジオ佐世保の異色番組として必ず挙げられるのは1955年4月18日から毎週月曜日16時から放送した1時間番組『コンニチワアワー』である。この番組は、佐世保駐留の米軍人と家族を対象とした番組で、日英両語で進められた。これはまさにラジオ佐世保にバイリンガルアナウンサー・二谷英明氏が在籍していたことで実現したもので、米軍人家族のディナータイムと重なったこともあり、人気を博した。また、日本人からは駐留米軍放送ド勘違いされることもあったそうで、そのレベルの高さを推し量ることができる。番組は米軍佐世保基地の協力や要望もあり、日米友好事業の一つともなっていた。地元ニュースのほかに、家庭訪問やインタビューなども行われていた。

  二谷英明アナウンサーは、このあと放送業界から俳優に転身し、全国的なスターに出世することとなった。ラジオ佐世保は、映画スターになった後も佐世保凱旋の際に『テレホンリクエスト』『スターと共に』などの司会に呼び戻したりもしたという。

  映画出演は二谷氏ばかりでない。1956年9月に封切られた怪獣映画『ラドン』では佐世保ロケが行われ、ラジオ佐世保の社員が出演者として借り出されたという。

  開局前に結成された『ラジオ佐世保友の会』は2年後には会員3,000人を達成した。当時全国各局でラジオ友の会が発足していたが、この時点でラジオ佐世保友の会は全国第二位の規模を誇ったという。

長崎放送  https://note.com/davekawasaki/n/n5f29d68063b3 



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