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日本の放送界が経験した大規模災害を振り返る

1 )東日本大震災の概要と対応の特異性~

★最大の特徴は『極めて短時間に複数の大規模災害が発生した』こと

・大地震
 最初の十分間ほど巨大地震が群発し、その後も震度5を超える大型クラスの地震が東北・関東甲信越の広範囲を襲い続けた。

・大津波
 大津波は北海道から関東にかけての太平洋岸全域を襲い、沿岸都市に壊滅的打撃を与えた。

・原発事故
 福島第一原子力発電所の大事故があった

・地盤災害
埋立地等の大規模な液状化現象があった

・大影響
 交通麻痺や風評危害などが同日一斉に日本を襲った。

・広範囲 
 一次災害の範囲が一道一都六県以上。二次災害の範囲が全国。東日本地域では一次・二次の災害が同時並行で襲いかかった

・指揮系統の障害
中央の災害対応指揮系統が事実上機能停止してしまった

放送局も同様で、地震、津波、火災、大規模液状化、大停電、交通麻痺、原発事故など「個別に特別編成を組む必要がある」ほどの事態が同時に発生したため、報道現場が混乱し、体制を整えるまでに時間を要した。

twitterなど個人発信型メディアによる情報のやりとりが活発化し、放送が「主たる情報源」といえなくなった。一部の放送が早いうちに災害報道から安否情報や慰安放送に内容を切りかえたというのも、歴史上異例のことである。

 
2)大震災発生直後のNHKラジオ

・NHKは中央・地方ともに見事な速報を実施。

 NHKは国会中継を放送中であったが、緊急地震速報を重畳して、ラジオではすぐに東京のスタジオに切り替えて既定のメッセージを放送した。
 そして、地震発生と同時に臨時ニュース用チャイムが送出され、総合テレビジョンをハブとした全波連動放送に切り替わった(国会中継はここで打ち切られた)。この時点で音声については、全系統で総合テレビジョンのものが送りだされる。
 ここではアナウンサーは既定の原稿内容に沿って伝えていたが、随伴するディレクターがデスクからの連絡を受けて、その場で細かい指示を伝えていることがわかる。このスタッフの声は裏方にしてはかなり大きく、ラジオではかなり明瞭にマイクに乗っていた。1449にはこのスタッフの「替えろ!」の声の直後、緊急警報放送が送出され、地震速報は一時、津波情報に切り替わる。この時点で全波連動はいったん解除され、ラジオ第二放送とEテレを除くテレビ副音声は外国語による津波情報に分離する。

・外国語による津波警報

 英語による津波情報は、北海道南西部地震の頃から試行されてきたが、2006年12月NHK発表の報道資料で「日本在住およびビジネスや旅行などで滞在している外国人視聴者に対して(中略)12月1日からは英語に加え、中国語、韓国・朝鮮語、ポルトガル語でも、津波情報をお知らせすることになりました」と発表している。実際には警報音に続いて、松平定知エグゼクティブアナウンサーが日本語で津波警報の発令と外国語による情報放送の開始を伝え、以降、英語に加え、中国語、韓国・朝鮮語、ポルトガル語の順で放送される。なお、19時や21時などテレビニュースに英語副音声がつく時間帯はラジオはこれを中継し、英語のみの放送となる。

・原子力発電所関係の報道
 十七時台では、首相による国民向けメッセージを放送し「一部の原子力施設が自動停止したが、これまでのところ、外部への放射性物質等の影響は確認されていない」と述べている一方で、十八時台には「東京電力管内の火力発電所、大部分が停止。電力不足のおそれ」と伝えられている。
 そして19:35には福島第一原子力発電所の電源トラブルが伝えられた
 (福島県対策本部午後六時発表)
 小名浜原子力発電所タービン建屋の出火
 柏崎原子力発電所の原子力建屋水たまりなどのニュースがまとめて伝えられた。

 深夜からはFM放送がラジオ第一と内容を分離して安否情報を放送しはじめた。この体制がその後一週間近く続いた。ラジオ第一はもともとワイド編成中心であり、徐々にその中に吸収されていたことになる。

3)民放各局の対応

【ラジオ福島】
 ゲストを招いてプレゼント賞品の試食を始めたところで地震が発生したが、担当アナウンサーは素早く対応。激しく揺れる中、ゲストの安全確保とリスナーの防災誘導を見事に務めた。アナウンサー本人の研究が行き届いている。

【茨城放送】
 CD音楽を演奏中であったが地震発生とともに音楽をフェードアウトして速報を挿入。簡潔に防災誘導をしながら、1~2分おきに何度も局IDと周波数を繰り返した。スタジオ内の情報素材(主に原稿)と扱い方についての指導が行き届いていたと思われる。

【ニッポン放送】
 電話インタビューの最中に地震を感知。この局には最新式の地震計の他に「五円玉」がつるしてあり、地震計よりも早く微弱地震を感知するため、アナウンサーは準備しやすい。自動車ドライバー向けの指示に特化している点が首都圏の局らしく、局自体の研究の成果を感じる。スポーツ実況のような力強いアナウンスがかえって安心感を生んだ。

【TBSラジオ】
 スポンサーつきのネットワーク送出つき録音番組を放送中地震発生。事情があって割り込みができなかったと思われる。CMと番組クレジットを放送した後スタジオから速報に入ったが、この時すでに激震の最中であり、防災誘導は大幅に後れをとった。また、アナウンサーもパニックを起こしており、用意されている原稿を読むのがやっと。長時間激震が続いている最中に「激しい揺れは1分以内に収まるといわれています」など、原稿棒読みであった。まもなく報道スタジオに切り替えた。大津波警報発令にともない緊急警報放送を発動させた。

【文化放送】
 アナウンサーをアシスタントに据えたワイド番組の放送中であったため、地震発生後の対応はアナウンサーが的確にすすめていたが、タレントパーソナリティがアナウンサーに任せなかったため内容が混乱。役割分担に関する打ち合わせがなかったと思われる。

【アールエフラジオ日本】
 タレントによるワイド番組を放送中であったが、すぐにアナウンサーが入って速報した。この局舎(東京支社スタジオ)は築50年近く、揺れ方も激しかったとのこと。

【ラジオNIKKEI】
 普段から災害発生に特別な対応をしていないが(昔、緊急警報放送の試験放送をしているのを聞いたので、設備はあるようだが、アナウンサーには特に災害に関する特別対応の指示はないとのこと)、今回はスタジオが激しく揺れたため無視できなかった。ただ、地震に関する正確な情報がまったくなく、気象庁やYahooニュースの速報を読み上げるだけというお粗末な内容。憶測で喋ったり、地名の誤読なども多く、災害放送の体を為していない。ただ、地震発生8分後に、地震直後の日経平均を伝えるなど、主たるリスナーに対する責任には敏感ではある。この局も社屋が50年を超えており、一時、全員退避の指示も出たという。

【大阪・朝日放送】
 テレビネットワークのANNから入ってくる情報をラジオに用いていた。これは異例のこと。

【大阪・毎日放送】
 JNN経由の情報に加え、21時からの「たね蒔きジャーナル」の時間を中心に局独自の取材・分析を行い、「ネットワーク1,17」など普段の防災番組での研究を役立てたといえる。

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【研究2】

 日本における災害放送のうち、のちに影響を与えたと思われるものを幾つか挙げる。

・1953年西日本大水害
 ~進行中の災害において果たすべきメニューの確立~
 九州における被害が甚大。開局まもないラジオ九州(RKB)は、福岡県対策本部に自社電波の提供を申し入れ、刻々の水害情報と、罹災者への注意、デマの粉砕などを終日終夜放送。悪状況下、福岡・大分・熊本・佐賀の広範囲にわたって記者を派遣し、正確な情報把握に力を入れた。災害現地局が行うべき基本的な内容が整う先例となった。

・1954年洞爺丸事故
 ~普段の取材活動が緊急報道に成果を与えることを確認~
 台風の影響によって、一千余名の乗船者が一瞬にして行方不明となった鉄道連絡船の沈没事故であったが、台風による全市停電で電話網が失われた中、録音機を担いで函館で徹夜取材中であった北海道放送(HBC)取材班によるスクープによって、全国に伝えられた。翌朝五時過ぎには事件の録音第一声が全国に放送された。
また、夕方から広範囲で停電していた青森県側でもラジオ青森(RAB)が非常電源で延長放送を実施していたが、午前一時のニュース開始直前に「七重浜に死体が続々打ち上げられている」という情報を受け、洞爺丸が事故にあった可能性があると報じた(全国第一報)。実はこの報せが入るまでは海上保安部詰めの記者からは「洞爺丸は座礁したが乗客は安全」と伝えており、沈没は予想されていなかった。その後青森運輸指令室への電話、青森桟橋の無線傍受などを突き合わせて遭難事故であることが確認された。普段の取材活動からどこに行けば情報が得られるか周知していたのである。

・1954年伊勢湾台風
 ~地理情報と科学的知識で未取材の災害を推測~
 東海三県を襲った歴史的巨大台風の来襲を前に、中部日本放送(CBC)は早くから各地の気象情報を入手して台風進路を刻々と伝え、同時に、高波への警戒、交通情報、ライフライン停止の際の注意等を細かく伝えた。さらに十数台の無線カーが実際に台風の中取材をすすめ、数的データで表現できない「具体的な被害情報」を伝えた。また、市内の地理情報を動員して、取材の手が届かないエリアの状況についても予測を立てた結果、高台にあった熱田神宮社殿に水がついていたのを見て南部地域の非常事態を推測して「午後十一時現在、名古屋市の南部は水中に没している模様です」というニュースを伝えることに成功した。救援部隊の出動を後押しする力となった。放送局が地理情報と科学的知識を動員して、今後被害の置きそうな(あるいは起きているであろう)エリアを予測するという手法がここで確立したことになる。

・1955年新潟大火、1964年新潟地震
 ~災害時に率先して放送することの意義~
1955年10月、台風二十二号下にあって、ラジオ新潟(RNK、現BSN)は台風情報のため終夜放送を実施していたが、午前三時すぎに市内で火災発生。暴風に煽られてまたたく間に広範囲に燃え広がった。ラジオ新潟はすぐに体制を整え、非常電源をセットして、マイクを屋上に移しての実況型の火災速報に切り替えた。屋上には台風の風に加え、火災による旋風が吹き荒れでいたため、吹き飛ばされないよう、アナウンサーとマイクロフォンは鉄柱に結び付けられていたという。最後には局社の隣にまで火が迫り、四時三十五分に「小林デパートからも火が出ました。もうこれ以上は危険ですから放送を続けることはできません。ではこれで実況を打ち切ります」という言葉を最後に避難撤収。その直後、局社も火に包まれた。
その後、放送は網川原送信所にスタンバイしていたアナウンサーが引き継いだ。放送は1分ほど途切れただけであった。
この時の教訓は、あろうことかこの九年後、新潟地震において活かされることとなった。この時も、新潟大火の時と同様、ラジオは局舎屋上からの実況放送に切り替え、当時まだヘリコプターによる指揮がなかった警察・消防などを誘導する役割まで負った。また、東京支社との専用回線を使った東京=新潟間の連絡代行、北陸経由による全国向けの映像発信など、普段の研究なくして発想できない手法が実施された。

・1984年長野県西部地震、1990年雲仙普賢岳噴火
~長期にわたる非常警戒状態のためのコミュニティ支援放送~
1984年長野県西部地震では、御嶽山山麓の長野県王滝村で推定震度6が記録され、地震による直接的被害は少なかったものの、降り続いていた雨のため、地震発生直後に各所で大規模な土砂崩れが発生した。
 この際、村内の一部が孤立して一般電話が不通になり、孤立防止用無線電話もメディア取材用の無線が混信して使いものにならなくなったため、必要な情報を伝える手段がなくなった。そのため、信越放送(SBC)が非常用放送局の免許を受けて「王滝村臨時放送局」を設置した(出力100W。中波)。もともと王滝村はラジオの難聴区域であった。この放送局は王滝村役場庁舎内の有線放送本部に設置され、普段はSBCの番組を中継しているが、有線放送が運用されるときはその内容がSBCの番組に割り込むことができるようになっていた。放送は約1か月行われ、一日三回(朝、昼、夜)の有線放送の定番組および緊急放送が割り込みでおこなわれた。この際有線放送のアナウンサーはSBCの嘱託という地位を与えられた。
 1990年雲仙普賢岳噴火に際しては、いつ何が起こるかわからないという不安定な状況で住民に必要な情報を伝えるため、1991年4月から96年3月まで「NHK島原放送局」を設置(出力100W。JOBG)。普段は長崎第一放送を中継し、必要に応じて島原市の前線本部(1992年6月まで)やNHK長崎放送局のスタジオから「雲仙・島原情報」が放送された。この放送では普賢岳の動向、行政からのおしらせ、島原半島の気象情報、降灰情報、住民向け生活情報、全国からの支援メッセージなどが放送された。

〈津波警報放送の先例〉
・1983年日本海中部地震
 この地震において最大の問題は、津波情報が間に合わなかったことにあった。当時は津波警報が出るまでに13~14分かかっていたため間に合わず、青森や秋田で海岸に遠足に来ていた児童や港湾建設従事者など多数が犠牲になった。これを機に、津波警報発出までの時間が大幅に短縮された。

・1993年北海道南西部地震および奥尻島津波災害
 この時は二十二時十七分に地震が発生し、既に緊急災害放送体制を確立していたNHKや北海道の民放各局は迅速に通常番組を中断して速報を放送。7分後に大津波情報を放送した後、NHK札幌とNHK東京から緊急警報放送(おわゆる「ピロピロ」)が全7波で送出された。NHK函館局は二十三時過ぎに「奥尻島で火災が発生した」と報じ、その後各局の電話取材で奥尻島を大津波が襲ったことが判明。しかし、夜間であったため現地に取材班を送り込むことができず、明け方NHKのヘリコプターが青苗地区に到着するまでは、現地からの電話で被災情報を集めるしかなかった。
この時には津波警報は地震の7分後に発出されたが、奥尻島では最初の地震で停電になったため、ラジオテレビがほとんど使われていなかったことがわかった。これを機にトランジスターラジオの常備と、地震が起きたらラジオをつけるという行動が周知徹底されるようになった。

・1995年阪神淡路大震災
 戦後のさまざまな災害放送の体験のすべてが注がれたのがこの地震であった。しかもそれまで「大型地震は起きない」と言われていた関西地区での被災であったため、まさに、放送業界全体に対する「抜き打ちテスト」となった。

■訓練放送の実例
・東海大地震に備えた訓練放送
 1970年代から1980年代前半にかけて、いわゆる東海沖巨大地震への関心が高まり、これに応じてNHKおよび民放各局で啓蒙放送やシミュレーション放送が行われた。
 このうち特筆すべきは80年代中盤の一時期、毎年9月1日早朝から午後にかけて、ニッポン放送(LF)が通常番組を中止し、全社をあげて取り組んだ「災害シミュレーション放送」である。この放送は、地震予知連絡会の招集から予知情報の発表、そして地震発生までに実際に使用される防災情報の原稿を用いて、当日の東京都防災訓練と連動した実地さながらの内容を放送するもので、誤解を招かないよう、原稿のワンセンテンスごとに「これは訓練放送です」というコメントが挟まれるほど慎重におこなわれた。

■参考文献 20世紀放送史、日本放送協会(2001)、民間放送十年史、日本民間放送連盟(1961)、放送二十年、アールケイビー毎日放送(1972)、北海道放送三十年(1983)、青森放送二十五年史(1985)、中部日本放送50年のあゆみ(2001)、東北放送の50年(2002)、福井放送のあゆみ(1979)、1984年9月長野県西部地震における災害情報の伝達と住民の対応、岡部慶三、廣井脩、三上俊治、池田謙一、橋元良明、池田加久子、後藤将之、後藤嘉宏(1985)、アジア放送研究月報、377号、378号、379号 アジア放送研究会(2011) 以上。

以上、アジア放送研究会 2012年アジア放送研究フォーラム予稿集より抜粋、要約の一部でした。
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