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日本の放送百年百局 1 『JOAK(社団法人東京放送局)』

社団法人東京放送局の開局まで

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 1897年、逓信省電気試験所は、東京・月島-品川沖第五台場間で日本で初めて無線通信の実験に成功した。そして、電信法(明治33年法律第59号)などの規定により電信・電話事業は国家専掌とされた。

 一方、無線電話に関する研究が日本でも盛んに進められ、1911年には東京帝国大学の北村政治郎が電弧式(アーク式)無線電話の実験に成功し、翌年5月に特許を取得し、同年、鳥潟右一・横山英太郎・北村政治郎が共同で火花放電による国産無線電話機(TYK式)を開発し、1912年6月、特許を取得するなど着々と道具立てが進んでいった。

 1914年5月12日、政府は電信法を無線電話に準用(大正3年逓信省令第13号)し、無線電話についても無線電信同様私設を認めないこととしたが、宇翌年11月、無線電信法(大正4年法律第26号)が施行され、無線電信・無線電話の私設が認められることとなり、これに基づいて1917年3月には「沖電気(株)」「(資)安中電機製作所」に日本初の機器実験用私設無線電信施設が許可され、沖電気には「XA」・「XB」(後のJ1CC)、安中電機製作所には「XC」・「XD」(後のJ1CA)の呼出符号が与えられた。

 これを皮切りに、さまざまな施設無線局によって、社内研究や知識普及用(一般公開のデモンストレーションを意味する)を目的とした無線電話実験が盛んにおこなわれた。

 1919年:新愛知新聞社、同社旧館・十一屋百貨店間
 1920年8月1日:大阪朝日新聞社
 1920年8月:平和紀念航空博覧会 知識普及用私設無線電信施設に許可。
 1921年:本堂平四郎、麹町区元園町で無線電話実験に許可。
 1922年2月:東京日日新聞社、有楽町~日本工業倶楽部の間に許可。
 1922年3月1日:浜地常康の機器実験用施設。京橋区南紺屋町9番地(東京一番)~箱型自動車1514号(東京二番)間に許可。
 1922年3月29日:東京朝日新聞社に平和紀念東京博覧会会期中、東京市京橋区滝山町4番地 東京朝日新聞社本社(東京三番)~上野公園平和紀念東京博覧会会場(東京四番)間を許可。
 1922年8月22日:本堂平四郎に機器実験用として麹町区元園町一丁目22番地本堂平四郎宅白酔堂(東京五番)~麹町四丁目1番地帝国毛織紡績株式会社内白酔堂出張所(東京六番)間に許可。
 1922年9月2日、東京日日新聞社に麹町区有楽町一丁目2番地東京日日新聞社本社(東京七番)~本郷区湯島三丁目東京女子高等師範学校内東京日日新聞社出張所(東京八番)間に許可。1923年1月には無線電話の公開実験に臨み、有楽町本社と東京女子高等師範学校、後に三越本店にも受信所を増設して実施。
 1922年10月、日華無線電信機製造所に国技館における菊花園開催中、本所区元町国技館内(東京九番 発信側)~本所区元町国技館内(東京十番 受信側)に許可された。

 こうした流れを受け、1923年3月13日には第46帝国議会の貴族院予算委員会第5分科会で、放送企業化に関する質疑応答があり。野田逓信大臣は、東京・大阪などで2、3の企業化を認める方向を示し、東京・大阪・名古屋の三放送局設立に向けた事実上のゴーサインがかけられた。

 実験はさらに高度なものとなっていった。
 1923年3月20日~5月20日、報知新聞社の有楽町二丁目1番地報知新聞社本社(東京十番)~下谷区上野公園池之端第3回帝国発明品博覧会会場(東京十一番)に許可。
 1923年4月1日、安藤博に機器実験用として四谷区北伊賀町13番地2号(東京九番および無線電信局JFWA)を、11月26日にはさらに同住所に東京十九番(無線電信局JFPA併設)を許可。
 1923年4月、無線科学普及展覧会・井上敬次郎に麹町区有楽町商工奨励館陳列場内(東京十二番 無線電信局JFVA併設)を許可。
1923年4月25日:横浜貿易新報社に横浜市本町六丁目86番地 横浜貿易新報社(横浜一番)~石川町四丁目14番地鶴屋呉服店(横浜二番)を許可。
 1923年6月、帝国ホテルに、麹町区有楽町一丁目1番地帝国劇場(東京十三番 送話所)~麹町区内山下町一丁目1番地帝国ホテル(東京十四番 受話所)を許可。
 1923年7月、東京毎夕新聞社に、荏原郡品川町北品川埋立地東京毎夕新聞社主催八ツ山下海水浴納涼会会場音楽堂左側(東京十三番)~荏原郡品川町北品川埋立地東京毎夕新聞社主催八ツ山下海水浴納涼会会場海水食堂内(東京十四番)を許可。
 1923年8月には、東京市が「電気研究所」を設立し、市営による放送事業への研究にかかる。麹町区有楽町2丁目5番地から実験放送を開始した。

 こうした流れを受けて、いよいよ1923年8月30日、逓信省は「放送用私設無線電話ニ関スル議案」を電話拡張実施及改良調査委員会総会で可決し、放送事業の主目的を「時刻・気象・相場・新聞等の実用的報道」と示すとともに、新聞社・通信社・無線機器製作および販売業者を網羅した組合、または会社に許可するという具体的な方針を規定した。

●後押しになった関東大震災

 その翌日正午前、関東大震災が発生。被災直後から市内に流言飛語が飛び交い、多くの朝鮮人や左翼活動家などが暴徒化した民衆に虐殺される事態を引き起こし、正確でスピーディーな情報共有の大切さが明らかになった。また、その一方で横浜に係留中の船舶と銚子無線局のリレー通信実施が成功し、関東大震災の惨状を正確かつ迅速に世界に伝えたが、これが海外からの復興支援につながったことで無線通信に対する評価が大いに高まった。これら二つが無線事業振興の機運を高める後押しになり、早くも12月20日には逓信省が、放送用私設無線電話規則を公布(同日施行)し、ラジオ放送に関する法整備が一気呵成に進んだ。

 1924(大正13年)5月28日、逓信省は東京の放送事業出願者の中から有力6団体(社団法人電話協会・国際無線電話・東京放送無線電話・東京放送無電・東京無線電話(同名2団体))を招致し、「1都市1局(東京、大阪、名古屋、仙台、広島、札幌、京城に各1局)」という基本方針を示して出願者間の合同を要望し(この時、東京市は招かれなかった)、これを受けて6月9日、6団体連署による放送用私設無線電話施設願書が逓信省に提出された。
 10月14日、『社団法人東京放送局』の設立許可申請書が東京逓信局に提出され、18日、放送用私設無線電話施設願書も提出された。これを受けて11月29日、逓信省、社団法人東京放送局の設立および放送用無線電話の私設が許可され、晴れて開局に向けた準備に取り掛かれることとなった。

東京放送局 JOAK

波長375m 電力(入力)1.5kW(出力750W相当)

 いよいよ開局準備にかかろうとしていた東京放送局であったが、当初から目をつけていた日本唯一の輸入送信機(ウエスタンエレクトロニクス(WE)社製101B型500W放送機)の購入契約を、12月3日に設立した大阪放送局創立委員会に先を越されてしまい、12月24日に改めて本放送用WE社製1kW放送機を日本電気に発注した。 

1925年(大正14年)1月22日、東京放送局は、東京市所有の放送用機械を借りることと、東京高等工芸学校の校舎借用の交渉が成立ことを受けて逓信大臣に対し仮放送の認可を申請。23日には東京市が東京放送局に対して仮放送用機械貸与を公式に承諾した。これは東京市電気局電気研究所が市営の放送事業のために購入してあったGE社製1kW無線電信電話送信機。

 2月、東京市電気研究所より送信機等を受けとった東京放送局は「日本第一声」を獲得するため、演奏室、送信機、空中線の支柱など、あらゆるものを借物で調達した。東京都から借りた送信機も放送用に改造された。17日には東京高等工芸学校が新築図書館の一部を放送室、付属舎を機械室として使うことを認め、送信機ほか器材一切を設置した。26日、逓信省は東京放送局の仮放送を認可。現在で言う「予備免許」にあたる。同日、JOAK局から試験電波が発射され、事実上の本放送である「仮放送」を3月1日に開始すると高らかに告知した。

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 しかし、工務官による検査の結果、逓信省は東京放送局に対し「送信機の改造も、演奏室の内装等も未完成であり、放送開始は尚早」の認定を下した。これにより大々的に告知されていた3月1日の仮放送開始は不許可となってしまった。

●第一声
 東京放送局は、逓信省と交渉の末、3月1日に「試験送信」の名義であくまで送信機の試験電波という名目で放送を開始することができた。当然、報道は許可されなかった。

3月1日:試験送信初日の番組

09.30 開始  
管弦楽 演奏・海軍軍楽隊 指揮・佐藤清吉楽長
 イ.アルフォード「行進曲 後甲板にて」  
 ロ.ルビンシュタイン「天使の夢」  
 ハ.マスネ「序楽 フェドール」  
休止  
12.00 哥沢 唄・哥沢寅右衛門家元 糸・哥沢寅秀 イ.そらぼの  ロ.春雨  
 三曲 尺八・吉田晴風 三弦・宮城道雄 箏・吉田恭子
  イ.谷間の水車  
  ロ.六段の曲  
  ハ.千鳥の曲  
13.00 休止  
14.00 イタリー歌劇団 ピアノ伴奏 カスタニー
  イ.レオン・カバロ「歌劇 バリアッチ」より「抒情調」 バリトン ピカルディ  ※「抒情調」は「アダージョ」と推測  
  ロ.プッチーニ「歌劇 蝶々夫人」より「晴れたる日」 ソプラノ アンブロゾ ※「晴れたる日」は「ある晴れた日に」  
  ハ.歌劇「椿姫」中の抒情調 ソプラノ ヘンキナ ※「抒情調」は「アダージョ」と推測 
休止  
20.00 長唄 唄・芳村孝次郎 糸・杵屋初丸 今藤長十郎'  「越後獅子」  
  独唱及独奏 独奏山田耕筰 独唱外山国彦
 イ.戦後(作詞:小林愛雄 曲:山田耕筰)
 ロ.ペチカ(詞:北原白秋 曲:山田耕筰)
 ハ.馬売(詞:北原白秋 曲:山田耕筰)
 ニ.船唄(詞:三木露風 曲:山田耕筰)
 ホ.黎明の看経 (曲:山田耕筰)
 ヘ.全国青年団民謡 (詞:北原白秋 曲:山田耕筰)
 終了  

 2日目以降は夜間のみ芸能・音楽番組を放送した。
 3月5日、東京放送局は東京市内11新聞通信社協議会と「新聞放送に関する覚書」を取り交わし、1日3回のニュース無償提供を取り付けた。ただし、ニュースの選択・編集権限は新聞通信社に属した。
 3月22日:東京放送局、逓信省から合格判定が下され、正式に「仮放送」となった。現在の「放送記念日」はこの日付に由来する。

東京放送局  JOAK

波長375m(周波数800kc)空中線入力約220W(出力110w相当)

1925年3月22日:仮放送初日の編成

09.30  海軍軍楽隊演奏 指揮  佐藤楽長(海軍軍楽隊)
  一、クラリネツト独奏 ラウンド 「幻想曲 マリタナ」
  二、ホルン独奏 ウエバー「歌劇 自由射手」より「カヴアテイナ」
  三、弦楽四重奏 チャイコフスキー 弦楽四重奏曲より「アンダンテ・カンタビーレ」
  四、管弦楽 マーケー「キスメツト 東洋風曲」
  五、管弦楽 ビゼー「歌劇 カルメン」からの抜粋曲

10.00 一、挨拶  後藤総裁 演説「無線放送に対する予が抱負を見よ」
    二、報告  岩原理事長  
    三、祝辞  犬養逓相(代読)  

11.30  ニユース(読売新聞社)  

11.50  新日本音楽演奏

      箏 宮城道雄 吉田恭子 
        新谷喜恵子 牧瀬喜代子 
        時田初枝 笙田辺尚雄
     尺八 吉田晴風 谷富加志

  一、宮城道雄「さくら変奏曲」  
  二、宮城道雄「春の調」  
  三、宮城道雄「薤露調」  
  四、宮城道雄「舞踏曲」  

13.30  ニユース(東京日日新聞社)  

13.45  哥沢演奏   唄 哥沢芝金 糸 哥沢芝勢以''

     一、薄墨  
     二、淀  

14.00  ソプラノ独唱  唄 レーヴエ ピアノ伴奏 萩原英一''

  一、ワグネル「歌劇 タンホイザー」よりエリザベート抒情調
  二、ブラームス「永遠の愛」   
  三、(イ)シューベルト「糸紡ぐグレチヘン」  
    (ロ)シューベルト「小夜楽」   
    (ハ)シューベルト「いづこ」  
  四、ヴオルフ「園丁」  
  五、チャイコフスキー「早くも忘れられて」  
  六、シュトラウス「献身」  

19.00  ニユース(東京毎夕新聞社)  

19.30  常磐津 乗合船恵方万歳
  唄  常磐津松尾太夫 常磐津弥生太夫 常磐津松重太夫
  三味線 常磐津文字兵衛 常磐津文字助 常磐津菊丸

 四重唱 ベートーヴェン作 歌劇「フィデリオ」第一幕目中のノツルデット
  マルチェリーナ(ソプラノ) 武岡鶴代
  レオノーレ(アルト) 斎藤英子
  ヤクイノ(テナー) 沢崎定之
  ロッコ(バス) 矢田部頸吉

三重唱  歌劇「フィデリオ」第一幕目中の「よし、よし、子供よ」
 マルチェリーナ(ソプラノ) 武岡鶴代
 レオノーレ(アルト) 斎藤英子
 ロッコ(バス) 矢田部頸吉

三重唱  歌劇「フィデリオ」第二幕目中の「勇気をつけて」
 レオノーレ(アルト) 斎藤英子
 フロレスタン(テナー)沢崎定之
 ロッコ(バス)    矢田部頸吉

四重唱  ヴェルデー作  歌劇「リゴレット」中のクワルテット  

二重唱  ヴェルデー作 歌劇「魔笛」中の二重唱 武岡鶴代 矢田部頸吉 ピアノ伴奏 榊原直

20:55  天気予報

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 1925年7月、東京放送局はついに1KW送信機(米Western Electric社製)を購入し、愛宕山公園1号地に建設中の愛宕山新局舎に設置。7月12日、新局舎からの運用が開始された(演奏所・放送所共用)。この日の放送から「本放送」とされる。

JOAK 東京放送局 周波数800kc 出力1kW

●社団法人東京放送局の姿

 局内には、東京日日新聞社の実験放送を担当した元同紙記者の京田武夫、キリスト教牧師で報知新聞社の実験放送を担当した大羽仙外、そして後藤新平の推薦で入社した美術学校卒業の才媛・翠川秋子など数人のアナウンサーがおり、最初は一つのスタジオ、一本のマイクロフォンですべての放送を賄っていたようだ。つまり、一つの番組が終わるごとに「しばらくお待ちください」というアナウンスとともに音声が途絶え、スタジオ出演者の入れ替えが行われたのだ。音楽番組の場合、楽器のセッティングなどの時間もとられた。

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 この時代、カーボン粉末を使用したマイクロフォンが用いられていたが、静電気の作用により粉末が徐々に固まるため、アナウンサーが放送中、時折マイクロフォンをコツコツと指先で叩くことがあった。また、一本のマイクロフォンによる集音だったため、音楽番組などでは楽器の配置に苦心したといわれている。

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 また、日々の出演者をブッキングするのも大変であったという。当時は電話の普及率も低いためすぐに連絡がつかず、かつ、ラジオに対する認識が低かったため、講演者や演奏家などに怪しまれることもあったようで、予定時刻になっても出演者が入局しないという事がままあったといわれる。当時は出演者や台本など放送内容について事前に検閲を受ける必要があったため、途端の出演キャンセルは担当者にとって大変面倒であったという。

 放送検閲は、事前チェックのほか、送信機と調整卓をスイッチで分断する「遮断」も行われ、広告宣伝などの「許可外の内容」や、事前に知らされていない内容が放送された時などに、検閲官の判断で遮断されたという。

 1926年2月22日:逓信省は放送事業統一経営および全国放送網施設計画に関する最終方針を決定。4月19日、放送事業の全国統一組織による放送施設計画等を協議した。逓信大臣は東京・大阪・名古屋放送局の理事長および常務理事を官邸に招き説明。5月25日、逓信省で第1回準備委員会。8月6日、逓信省は、社団法人日本放送協会の設立を許可。同日、社団法人日本放送協会設立総会が開催され、協会本部を東京に置くことに決定。関東支部(東京)・関西支部(大阪)・東海支部(名古屋)、関東支部横浜出張所などが設置された。

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 8月20日:東京・大阪・名古屋の旧3法人が解散され、施設、従業員ほか権利義務のすべてが日本放送協会に引き継がれた。東京放送局は「お別れ放送」を実施した。


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