昨日今日はほぼ歩き続け美術館を回った。
ウィーン分離派の人々の作品群、中世絵画、コンテンポラリーアート。とにかく浴びるように、見て回って、明日も二箇所行く。
21時ごろに宿の近くのケプラープラッツ駅に戻ってきても、鈍いグラデーションの空が雲の隙間から見える。
ふと自分のことを思い出す。
美術が好きだから、人が絵を描いて生きているということが素晴らしいと思うから。目で見た時に、自然と音楽のような感情が一陣の風のように立ち上がって私の心を捕えるから、だから子供の頃から絵を描いている。
一人で旅をすると、それまでの人間、そして時折空の向こうからの便りや自分の投稿を見ている人たちから連絡が来る。会えるかを聞いてくれたり、感想を寄せてくれたり、ときに胸に引っ掛かるような言葉も届く。
でも、ひとりの時間をこれほど沢山使ってひとりになっても、ひとりぼっちにはなれない。頭のどこかにいる彼ら彼女らが永劫回帰する。
人と心を重ねることの難しさ、人を意図せず傷つけることや相手の意図とは関係なく傷つくことの怖さ、そうしたことに恐れをなして私は人々を遠ざける。それでも、時に誰かが便りをくれ、それが私の頼りとなる時があり、そうした時に自分の至らなさや、変わってしまったことに対して苦しさを感じる。
そういうとき、ジョニ・ミッチェルの詩が、心の底から湧き上がる情念と共に、星月を棚引く夜風へと昇華する。私のアイネ・クライネ・ナハト・ムジークは、Both Sides Now.
生きるうえでの不甲斐なさも、寂しさも悔しさも、すべて変わりゆく雲の形のようにとめどなく、取り留めることもできないものであって、それでも喜びを見出して生きていくこと。私はそういうものを愛している。
目が覚めたようにイノセンスを失った自分は、
人と関わることに疲れ切っていた。
今でも積極的にそういうことを望みはしない。
静かな時間がとても心地よくて、木漏れ日のベンチに腰掛けるような安らぎがあるから。
でもまた邦に戻ったら、どんな形にせよ関わらなくてはいけない。矛盾や圧力や不条理の連続するなかを掻い潜るあの迷路のダンジョンのような有象無象に。
でも、この旅が終われば、もうある程度自分の自由というものが小さなものになってしまっても、私は心の中に大きな世界を宿すことができる気がしている。
そのくらい日々が充実していて、数年月を瞬間的に体感しているような感覚があるからだ。
旅のプロセスや、具体的なアクションはある程度時間が経っても、振り返って後から記述することはできるが、こうした情緒の痕跡は、なかなかレトロスペクトロで脳内に投影することが難しいので、2周目のマイルストーンとして書き残している。
明日の移動中、すこし具体的な鑑賞体験を記述しようと思う。今は少し歩き疲れた疲労でそれを思い返す体力がないのと、諸々の体験を終えてから書き残した方がサマライズしやすい。