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そこに物語/XMがある限り

「この世は舞台、人はみな役者」とシェイクスピアは劇中で役者に言わせた。役者自らが役者というものを語るのだから、観客としての僕らは、そこはかとない可笑しみを感じたりする。
つまり演劇の舞台の中と観客の間に、もう一つ「役者が役者について語る」世界があり、役者が自分自身を客観視しているとも取れるシーンなのだ。そこにズレというか「なんかおかしなこと言ってる?」と感じるわけだ。これをメタ視点と言ったりするらしい。

さて、観客たる僕らは、舞台装置の上で展開する物語は「物語として」客観的に受け止める。しかし観覧中は劇場の外にある現実よりも、物語の中に没入しているはずだ。これは演劇に限った話ではなく、映画やテレビドラマ、あるいは落語、漫画、小説だって当てはまる。
もちろん、ゲームだってそうだ。VRゴーグルなんか無い、ドット絵のコンピューターゲームの時代から、あるいは上下に動く棒で四角い「ボール」を打ち返していた頃から、僕らは「別世界だと分かった上で」没入することができた。

「別世界」は「虚構」と言い換えてもいい。でも物語(フィクション)を楽しむ僕にとっては、それを虚構と言い換えては文字通り虚しい気持ちになる。新潮文庫の昔のキャッチコピー「想像力と数百円」を存分に味わうには、虚構という概念は、あまりにもお邪魔虫だ。
一方、僕らの足場は現実だ。だから物語世界は物語世界で「閉じている」はずで、僕らはそれを透明な窓から覗き込んでいるに過ぎない。この「透明な窓」を「第四の壁」と呼んだりしている。第一~第三は舞台では後ろの壁と、上手(かみて)・下手(しもて)の袖。そして僕らが覗き込む窓があるのが「第四の壁」だ。これらで物語の別世界は明確に区切られている。

だから「物語の登場人物たち」は普通、第四の壁を超えてこないし、壁の向こうでどんな爆発が起こったとしても、あるいはサメ竜巻が起こっていようとも、核戦争後に機械文明が支配する世界であろうとも、壁のこちら側は安全だ。これは「デッドプール」のデッドプール、あるいは「ニンジャスレイヤー」におけるザ・ヴァーティゴのように、観客に語りかけたり自分を演じる役者について言及したりするといった「第四の壁」を破る描写がある作品であっても、作品である以上は変わらない──フィクション作品であるという現実によって構築される、より高い「第二の第四の壁」を越えられないからだ。

実はここまでが前置き。
うん、「また」長いんだ。済まない。
仏の顔もって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。
(中略)
じゃあ、本論に行こうか。

イングレスは「第四の壁」を撤去したいのか

さて。「アノマリー」のプライマリー・サイトに行くような人たちや、僕のような「インベスティゲーター」──調査員:ここではイングレスの物語の謎を解こうとする者たち──のカテゴリに属するような人たちは、イングレスに「登場人物」がいることを知っているだろう。そしてその界隈に長くいる人は、ある時期を境に、「登場人物」が同じ名前で別の顔になった(人物によっては性別さえ変わった)ことも。

これは物語上では、元々の「1218ユニバース」に併存する「オシリス・ユニバース」に舞台が移り、世界の様相が一部変わったため、と表現される。
そしてつい最近まで行われていた「テッセレーション」は、もう一つの世界「ネメシス・ユニバース」と「オシリス・ユニバース」をさらに外からの存在(エクソジェナス)から守る為のシステムを構築するものだった、という。

この辺りはMailEaterさんの「Lycaeum Wrap-Up」にある「ネメシス・シーケンスのあらすじ」に掲載されている……が、一度読んでもすぐには把握できないくらい、ややこしいね。
実際、僕も途中から着いて行くのが難しく、フォーラム投稿やリュケイオンTGで後から知ったことも多い。

話を続けよう。各ユニバースでエクソジェナスの侵入を阻むシステムとしてのテッセレーションは、同時にユニバースを隔てるものとして「膜(メンブレーン)」という言葉でも出てきてた(オシリス・ストーンのアーティファクト・テッセラ参照)。
僕はこれ、1218ユニバースでは「fabric」という言葉で表現されていたものと近しいのでは無いかな、と思ったりもした。fabric(織物)は織り方によって様々な模様を描く。これって、プログラマブルな防壁であるテッセレーション・メンブレーン(仮称)に通じないかな、と。

そうやって「独立世界」を保ってきたそれぞれのユニバースではあるけれども、ある程度、共通する軸も持っている。ナイアンティック計画に関わる研究者がそれぞれ似通っていたり、検出アルゴリズムことエイダが存在したり、XMが発見されていろいろ研究中だったり。
でも、細かい部分で違う。これは「同じような脚本だけれども演出や解釈が違う」という表現もできるかもしれない、と僕は思っている。古典落語で同じお題でも、噺家の解釈が違えばサゲ(オチ)も変わり、悲劇が喜劇になったりする。それと似ている……かもしれない。

さて僕たちは、そういった多元的な展開をする物語を、僕たちの現実の中で見ている。いや、ただ見ているのではない。二つの陣営の戦いに、否応なく参加している(やりたくなければやらなくても良い自由も在る)。たまにはその戦いの場に「登場人物」がやってきて、謎の物理アイテムを置いていったりもする。そこがイングレスの物語の面白い構造だ。
より手元に近い所でいえば、スマホにアプリを入れるだけでそれは「スキャナー」となって、今までのスマホではなくなり、あなたは「エージェント」になってしまう。

だからイングレスにおける「第四の壁」は限りなく透明に近く、その存在を認識しづらくしている。
だが、果たしてイングレスの物語は「第四の壁」を撤去することが目的なのか?

こういう問い掛けをする時、答えは大抵「否」だ。これは文章のお約束みたいなもの。それに従って僕は「イングレスの物語は第四の壁を取り払おうとしていない」と書こう。
なぜなら、僕はエージェントという役割を演じている自分を自覚しながら、スキャナーという言葉の皮を被ったスマートフォンを突っついているのだから。僕には「第二の第四の壁」の存在が認識できてしまっているのだから。

陣取り合戦より先に、物語あり

そうだといって、没入できなかったり、虚しくなったりするわけじゃないのが、イングレスの面白さだ。そのエンタテインメント性は、やはり現実をうまく融合させる物語の構造にあると僕は考えている。
陣取り合戦だけでは生まれない、物語を交えてこその面白さだ。

イングレスの物語の核になる「ポータル」。これはゲームとしてのイングレスが始まる前から、現実の世界で予告されている。たとえばこの記事などは、β版すら世に出ていない2012年9月の投稿だ。こうした導入によって世界を複層的にしていることを、僕は後に知ることになるわけだけれど、実に作劇術(ドラマトゥルギー)の面白みを感じたものだ。

だから、少なくてもイングレスの初期シーンにおいては、「第四の壁」の存在をあやふやなものにしようとしてきた、と感じられた。
ではあるものの、イングレスが息の長いゲーム作品となり、ミドルウェアのサポート切れ問題という“現実的”な話があったりして、「第四の壁」の存在感が増してしまったのは否めない。

そこに対応しようとしたのが、マルチバースというアイディアなのだろう。アメコミなんかでもよく取られるアイディアのようで、例えば「長続きしたんで時代に合わせる形になるようにリブートする」といった形で物語を続けたりしている、らしい。
こうしたシステムが一般化しているのは、「スパイダーマン:スパイダーバース」のような作品が受け入れられていることからも分かる。僕はこの作品を見たことが無いのだけれど、このアイディアは、移り変わりの激しい世の中で、一つの知財を長続きさせるためにも、とても具合良くできているな、と思う。

イングレスもこれに倣ったのかは分からないが(とはいえストーリーの端々にアメコミの影響は感じている)、登場人物を入れ替えたり、物語構造を変化させる手法として「ユニバース」を遷移するというアイディアは、僕には新鮮だった。その分、混乱もしたけれど、振り返って物語構造の把握を試みてみると、なんとなく納得できるところに着陸した。COVID-19の流行による「外遊び」への多大な影響もあったりした中で、大したものだなぁ、と感心する。
COVID-19の流行はイングレス、ひいてはナイアンティックの位置情報ゲームのコンセプトを揺るがしかねないものだ。現在の世界は、それをまだ引きずってはいるものの、イングレスの物語はその状況下で一つの区切りを迎えた。
前置きで述べたとおり、僕は物語というものが大好きなので、ひいき目に逆から言おう。「物語が無ければイングレスは続かなかった」かもしれない。あるいは、そう、「始めに物語ありき」と。

僕らは、上下に動く棒で四角い「ボール」を打ち返していた頃から、僕らは「別世界だと分かった上で」没入することができた。そこに何を感じていただろう。
CPUキャラクターの息づかいを?
自分が投影されたキャラクターの間近で弾ける爆発を?
ネットワークの向こうの対戦相手の存在を?
誰かの存在を感じるとき、そこに物語が芽を出す。それを分かった上で、イングレスの物語は「プレイヤー参加型」の要素を取り入れ、世界中が共有できる物語を軸に展開してきた、のではないか。

インベスティゲーターとしての僕は、英語の情報を誰かに訳してもらったのを読んで(たまには自分で翻訳したりして)、あーでもないこーでもないと物語を解釈し、その背景にある文化を感じ取ったりもする。
そしてエージェントとしての僕は、スキャナーの向こうに居る「誰か」の存在を知っている。その人が申請したポータルの傾向を、その人がどんな人と関わって作戦しているのかを、あるいはソロが好きなのかを、ミッション勢なのかクソリンカーなのか、場合によっては複垢持ちなのかどうかさえ、気付くこともできる。それもまた、物語だ。

きっとあなたの手元、地元、旅先でも、物語は生まれている。その物語こそがXMの輝きとなるのではないか。そんなことを思っている。
だから、僕は「第四の壁」の存在を知った上でもイングレスに没入できるのだ──そこに物語がある限り。





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