自分の信じるもの

前のnoteを更新して、友人とやりとりをした。

高校生自身が自分で誰かと折り合いをつけたり、楽しみをつくっていかないとこの環境はしんどいと思うと話をしたら
高校生のうちは、たくさんしんどい思いをしていいと思ってる。その感情を吐き出したり、書き残したり、自分の中だけで押さえ込まないのって大事な気がする。と返事をくれて

しんどい思いして耐えれない人たちを最初に見たから、ちょっと敏感になってると返すと
耐えなきゃという考えをどうにかできたら違うのかな、発散するのは大切だねと返ってきて

発散できる場所がないと潰れちゃうとは思う。そんで潰れるのも経験だ、苦労は買ってまでしろ。とは思えなくなってしまった自分がいる。と言ったら
苦労した経験をエネルギーに変える人がいればトラウマになる人もいる。閉じこもるのは悪いとは思わんけど、そういう時期もあっていいと思うけど、生き辛さを感じながら過ごさなくてもいいと思う。と。

てなったらどっちも論だとなる。こういう人もいれば、こういう人もいる。結局何をするのも怖すぎる。と返すと
何もしなくていいのではないかという結論になる。と返ってきた

そうなると私の場合関心がなくなってくる、何もしなくても勝手に育っていくと思うし、押し付けたいと思わないし、教えたいと思えるほど確固たるものがない、おいおい自分…と私
関わる時期や場所にもよるかなぁ。仲裁に入るとスムーズにことが運んだこともある。高校生にもなると既にできあがっているから、難しいけど。

一人では乗り越えられないことを乗り越えるためには、他者の力が必要なこともあると思う。
でもその他者が近くにいるとは限らない。
じゃあできることをするしかないねという結論で終わった。


そして、自分の環境を客観的に見れた気がしたよありがとう。という流れから

「伊達ちゃんは客観的になりすぎて伊達ちゃん自身からよく離れているなって思う」と言われ、めちゃハッとした。
というかどうしてそこまで客観的に見ているの?と言われた。
一人の状態で客観的になってしまったら、むしろ自分から離れていることがよくわからない。

なぜこうなったかは自分と違う人のことを知りたいと思ったらこうなった。
自分が人を傷つける可能性が怖いというか、じゃない人のことを考えないと”みんな”っていう言葉は使ってはいけないと思うというか…

「気にし始めたらキリないことを気にしているような、堂々巡りが趣味レベルだよね。」

ほんとにその通りだと思った。

「いろんな視点で考えた上で動くってことか、自分と違う人のことを思うことは素敵だけど、それで自分を無視しちゃいけんよね」


「なんでこんなに”みんな”に拘るのか」「一体感が好きって言ってたからじゃない?そこにこだわりがあるんじゃない?と思う」「なんで一体感が好きなのかわからん」「言葉で説明できるもんでもない気がするなぁ」
また趣味の堂々巡りをした。

だから自分が信じていること対してアンチの人の意見をいっぱい取り入れようとして、そうすると自分が好きな一体感を悪に感じて、自分嫌いになるというループなんだと気づいた。

情報ありすぎると正解というか進みにくくなるなって思う、わかんなくなるねって最後に言ってくれた。

企業のメッセージで僕たちはこの世界を信じますというのを見て宗教ちっくやなと思うこともあったけど、そうしないと結局何も動き出せないというか何も言ってないし。どっちつかずな自分はあんま好きじゃないなと思った。っていう話。

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