宗教的/世俗的ディストピアとユマニスム

今日は東アジア藝文書院(EAA)のオムニバス「学術フロンティア講義:30年後の世界へ――「世界」と「人間」の未来を共に考える」の担当回で、表題にあるように、「宗教的/世俗的ディストピアとユマニスム」と題する話をした。

ジョージ・オーウェルの『1984』を世俗的ディストピア、ブアレム・サンサルの『2084』を宗教的ディストピアと見立てて、そうしたなかでいかに人間らしく生きるかというのがメインテーマ。

フランスの「イスラーム化」と言われる現象をとらえるときの注意点、サンサルが背負っているアルジェリアの文脈など、宗教社会学的な要素も入れたが、メインは2つの文学作品の比較だったわけで、私自身が「フロンティア」に立つような講義をした。

『2084』の主人公アティは、全体主義的な作品の「世界」において、抵抗することに「人間」らしさを見出し、「境界」(フロンティア)を見つけて越えようとする。受講生には、安全なまどろみと、危険と隣り合わせの冒険のどちらを選ぶか、また、私たちの現状をくっきりと浮かびあがらせるような「フロンティア」はどこにあると思うかと問いかけたつもり。

コーディネーターの石井剛先生からは、魯迅『吶喊』の「自序」を思い出したとのコメント。「鉄の檻」のなかで寝ている人たちを起こしてよいのかと葛藤する魯迅がいて、そこでは絶望と希望が隣り合わせになっているという話。

まさにそういう話ですと思い、授業後、手元にある岩波文庫(竹内好訳)と光文社古典新訳文庫(藤井省三訳)を開いてみたら、後者にはちゃんと線を引っ張っておきながら、それを完全に忘れていた自分を見出す。

===以下引用===

「かりに鉄の部屋があって、まったく窓もなくどうやっても壊せないやつで、その中では大勢の人が熟睡しており、まもなく窒息してしまうが、昏睡から死滅へと至るのだから、死に行く悲しみは感じやしない。いま君が大声を上げて、少しは意識のある数人の人たちをたたき起こしたら、この不幸な少数派に救いようのない臨終の苦しみを与えることになるわけで、君は彼らにすまないとは思わないかい?」

「しかし数人が起きたからには、この鉄の部屋を壊す希望が絶対ないとは言えないだろう」

そうだ、私には当然私なりの確信があるが、希望について言えば、それは抹殺できないもので、希望は将来にあるのだから、絶対に無しという私の悟りでは、彼のあり得るという説を決して説得できず、そのため私もついに何か書こうと承知したのであり、それが最初の一作「狂人日記」なのである。

===引用終わり===

書き写してみて、おお、これが世界文学だといま感激している。コメントをもらってリアルタイムで当意即妙な受け答えができたらどんなによかったか。学生からの質問もよくて、うまく答えられたかはわからないけれども、よい経験をさせてもらった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?