ショートショート「人を殺す臭い」

3年前、地震で家が壊れた。
俺は少し離れたところにいる妹の家に厄介になった。
持っていくのはお気に入りの柔軟剤と少しの服だけ。

妹の遺書を読んだ。
末尾にはこうあった。
「あなたにすべて奪われました」

柔軟剤が臭いからやめてと言われたが、そんなことはないと放っておいた。
そのうちに妹はよく咳をするようになった。
そして頭痛がすると言い出した。冬でも窓を開けているので、寒いと言ったら換気しないと私が死ぬなんて言い出す始末だ。臭いで死ぬわけがない。それにいい匂いじゃないか。
俺は柔軟剤を使ってから三日置いた服しか着ないようにと妥協した。
けど、俺が帰ってくると、妹が家にいないことが多くなった。
友達の家に行っているのだろうと思っていたが、ホテルに避難していたらしい。
ホテルから忘れ物が届かなかったら、俺はそんなことも知らなかった。
俺は正社員だけど、ホテルに金を使うのも馬鹿らしいし、家を建て直す金はないしで、妹の家に泊まっていればいいと思っていた。
けど、妹はアルバイトなのになけなしの金でホテルに泊まっていた。
柔軟剤の匂いが引き金になって
その後他の匂いもだめになって行ったと遺書に書いてあった。
排気ガスの匂い、煙草の匂い、糊の匂い、広告のインクの匂い、紅茶の匂い
2ヶ月前には家から出られなくなったと言ってきた。
仕事に行きたくない言い訳だろうと俺は気にしなかった。
俺はとことん馬鹿だった。
妹は仕事を辞めた。
俺が失業させたということだ。
貯金もない、仕事もない、常に咳と頭痛がして、ときどき失神する。妹は結婚を考えている男がいたようだが、遺書であきらめたと書いてあった。俺は妹の人生から日常と希望を奪ってしまった。
今、思い返してみると、職場で俺の隣の席の同僚が頭痛がすると言って、立て続けに辞めたことがあった。花粉症かと思っていたが、もしかしたら俺のせいかもしれない。お気に入りの柔軟剤に出会えたのは、あの頃だったから。
電車で同じ車両に乗っている乗客が気を失って倒れるということが一度あったことも思い出した。もしかしたら、あれも俺の柔軟剤のせいだったのかもしれない。プラットフォームだったら死んでいたかもしれない。

妹が死んでから、俺は花粉症になった。
花粉はくしゃみも出るし、目は痒いし、時々吐き気もする。
花粉の出るような杉をたくさん植林した林野庁には殺意さえ湧く。
だが、妹にとって俺は歩く杉花粉のようなものだったのだ。
それがようやくわかった。俺は三年前に柔軟剤を捨てておくべきだったのだ。
どうしたって遅すぎるけれど、俺は今日から不買運動を始めることにした。
臭い付きの柔軟剤も石鹸も死ぬまで使わない。



解題
柔軟剤には匂いを長持ちさせる成分が入っていて、たいていの人は柔軟剤をきっかけにこういう症状になって行くそうです。
その後、他の匂いもだめになって行くのは、花粉症の人が、桃やリンゴのアレルギーになって行くのに似ていると思います。よほどきつくなければ香水や紅茶の匂いが引き金になることはないと思いますし、換気できない環境や移動できない場所でなければ、自分にうっすら匂うくらいの香水はたいていの人には問題ないと思います。
もちろん、発症して他の匂いもだめになって行くと、人と接する仕事はやめざるを得ないし、収入を絶たれます。同じ電車に乗っている人、学校や会社で席が隣の人が苦しんでいるかもしれないし、発症するかもしれないと思うと、無関心ではいられません。
10分以内に匂い付きの柔軟剤を捨てましょう。そして、無香料の柔軟剤を使うようにしましょう。見知らぬ人、知っている人の命を危険にさらす前に。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?