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失われた二人称

皆さんお久しぶりです、脱脂綿です。しばらく別のことにハマっててnoteの更新を忘れていたのですが、今日からしばしば上げるのでよろしく。


さて今回は、子どもから大人になるとはどういうことか、と言う話から初めます。
つい昨日NewsPicksの某イベントが記事化され(不肖脱脂綿のnoteも抜粋を載せていただきました、ありがとうございます)、文字化され少し雰囲気を変えたイベントを楽しみました。その中の伊藤賀一さんの、"世の中にはどうしようもないことがあると知っているのが大人"という言が考える切っ掛けとなりました。

大人への変遷を定義する要素のひとつとして、心理学者ピアジェの「脱中心化」 が挙げられます。人間は元来自己を中心にしか物事を捉えることが出来ないが、社会的に成熟するに従い"脱中心化"をし、他人の視点を手に入れる。というのが概要です。大人になると三人称神視点を手に入れるのだ、という曲解をすることも出来るでしょう。

一人称だけではなく三人称の視点でも考えられるようになる、と。なるほどなるほど。でもまてよ、と。二人称はどこに行った?
……こういう書き方が二人称なのだ、と言えば言えなくもないかもしれないが、始終こんな書き方してる奴を見たことはないですよね。うざいし。

小説にしろ評論にしろ論文にしろ、基本的には三人称神視点、一人称視点でかかれることが多い。演劇なんかをしていても、後方右斜め上くらいを指して、「この辺に冷静な自分を1人置いときなさい。」と言われる。しかし「常に客席に自分を置きなさい」とはなかなか言われないだろう。勿論客からどう見えるかが1番大事な訳で、そうした方がいいのは明らか。

誰かと話をするときは相手の気持ちに立ってるじゃないか、という人もいるだろう。しかしはたして本当にそうだろうか。意図は分かるだろうがそれに加えて夢を想像すると分かりやすい。一人称の夢も三人称の夢も見たことはあるが、、という訳だ。

何故か?
二人称の小説や夢を見ないのは。ピアジェよ教えてくれまいか。常に主人公の話し相から語られる物語が、3分の1はあってもいいじゃないか。実際三人称の物語は、一人称のそれに負けないくらい多いのだから。

ピアジェよ、この謎が解けない限りは大人になったと言えないのでは無いか?あるいはこの謎は解けないと諦めてしまえば、不条理を理解した立派な大人だということだろうか。


追伸
おそらく次回は、高校の体育祭のことになります。コロナ後では最も早いものの一つになると思うので、良ければ参考までに。

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