指定者補習

夏休みになり、英語が苦手な生徒たちに補習を行う。どこの私立もやっていると思う。僕の学校も私立なので、そう言うシステムがあり(22年前に自分が勝手にやり始めた、ってのもあるけれど)、生徒と一緒に時間を過ごした。(やったのは英文法のおさらい)

いつもだったら、こちらがドリルプリントなどを準備して、それを生徒に解かせて、丸つけして、わからないところを教える、と言う形をとるわけだけれども、今年は一切教えないようにして、生徒が自分で勉強して、答え合わせをして、自分で復習して、どうしても難しいところ(例えば単語の読み方がわからない、とか、解説を読んでもいまいちピンとこない箇所など)は何でも聞いてね、と言うようにして、スタートした。

僕も同僚も何一つ講義もしなければ、手取り足取りもしない。管理のおじさん。何もしない。生徒は静かに黙々と問題に向き合い、丸つけをして、自分で解説を読み返し、次に進む、と言う形。

生徒は1学期、学年全体の取り組みを通して、学びの自律性が起動している。講義や授業を一切行わなくても、生徒は自信を取り戻し、自分で進んで学ぶことができる。そういう習慣をこの4ヶ月間、同僚と共に、生徒に培ってもらうことに腐心してきた。だから生徒はきっと自分でやるし、こちらに甘えたりしないだろう、そう確信していた。

2時間半、生徒たちと一緒に過ごしたが、生徒たちは自分たちで淡々と、黙々と問題を解き、復習をし、丸つけをして、次に進む、をやった。

成績が振るわないのには色々な原因がある。

・授業の進度と自分の学習ペースが噛み合っていない。
・全体の中で、英語ができる子達を見て、自分はダメなんじゃないか、と気後れしている。
・科目そのものよりも、集中力や持続力、学習習慣が身についていない。
・反復練習が苦手である。
・静かな環境だと落ち着かない。
・自分は勉強ができない、と思い込んでいる(こまされている)。
・自分が今何をしていて、それにはどんな目的があり、どこへ向かっているのかが見えづらい。

それはフォアグラ型学習によって、ドリルを繰り返し、基礎学力の土台を築いてきたこれまでの背景が大きく影響しているんだと思う。
過去に教えてきた生徒たちも、そういう目に見えない圧に押しつぶされたまま、ヘラヘラと自虐的に薄ら笑いを浮かべ、手立てを見出せずに時間をやり過ごしていた子達が必ずいた。

先生が手取り足取りしてあげなくても、自分の力で、学ぶ習慣や、できた、という喜び、なんとかなるかもしれない、というわずかな勇気を取り戻すことができる。

生徒にそのことに気づいてもらうこと、自分の足で立っていける、と実感してもらうこと、自信を取り戻してもらうこと、学んで知ること、その知識を使って考えたり表現したりすることに、学びの楽しみがあることを体全体で味わってもらうこと、そのために基礎学力は必要であり、彼らの学びの自律性、自信、が必要である。

そういう観点に立って、今日の彼らを見つめる時、指定者補習、という名称は、なんだかおどろおどろしいものに聞こえる。

ただの学習会である。

自分を取り戻し、学びの自律性を起動して自ら学習する規律性を取り戻し、さらに、そうやって継続していくことで、教科の学力が向上することを理解し直すこと、それがこの会の主たる目的である、と僕は生徒たちの姿を見て思った。

生徒は教えなくても、自分で学ぶことができるし、学ぶ機会、学ぶ楽しさを取り戻すことができる。そのことを改めて再確認した。

1学期に学年同僚たちと積み上げてきたものは、この子たちのこれからの成長にとって非常に重要な意味を持っていた、と改めて確信を持った。

生徒たちに身につけさせるべきことはなんなのか、常に同僚と問い続けながら仕事を続けてきた1学期だったけれど、その成果は、早くも着実に子供達の姿に結晶している。

スタートしたばかりの中学生生活、子供達の成長ぶりに、熱を感じる。
その熱で、胸がさらに熱くなっていくのを感じている。

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