勉強するということ

学年だより10月の巻頭言を書かせていただきましたので、ここに再録させていただきます。お時間ある方はぜひお読みください。

「勉強するということ」
「勉強する」という言葉は、広義で、汎用に用いられることが多いので、「勉強する」こととは、一体どういうことなのかをしっかりと理解し、自覚的でいることが難しいのではないか、と思うことがよくあります。ですから、「もう大学を卒業したのだから勉強というのは終わるのだ」とか、単に「試験で点数を上げる・合格を勝ち取るためにするものだ」としか考えず、いつしか勉強することをやめてしまう人が大人の中には数多くいることも、「勉強する」ことの意義の誤解が生じさせている不幸だと僕は思っています。

「勉強する」というのは、「スキルを上げる」、「知見(ちけん)を深める」、「視野を広げる」、「思考を深める」、「理解を深める」、「未踏(みとう)の地に踏み込む」、のすべてを含んでおり、さらにその目的は「弱者を救うため」、そして、「人類が決して到達し得ない宇宙の真理に限りなく一歩近づいていく」ことに他ならない行為だと僕は考えています。

そういう見地(けんち)に立って「勉強する」というのはどういうことを指すのかを考えたときに、「勉強する」という行為には終わりがないということがわかります。今皆さんがしている行為で、「勉強する」と呼んでいる行為は、初等教育、中等教育に於いて、基礎力となる学力を身に着け、定着させるために行われている、という理解がまず必要で、学校で学ぶことのみが「勉強する」ことなのだ、と考えることは、些(いささ)か短見(たんけん)である、と認識しておくことが非常に重要です。

 前号の学年だよりの学習係の項で、「自分磨きをする」ことを皆さんに奨励(しょうれい)させていただきました。自分磨きをすることは、幅広い意味で、自分を高めるためにすることです。宿題や課題をするのは、本来であれば「勉強する」の中の、「スキルを上げる」、「理解を深める」に相当する行為であると言えると思います。

 勉強が足りない人生を送ると、人生が彩(いろど)りよくならず、空疎(くうそ)で単調(たんちょう)な日々を送ることを余儀(よぎ)なくされます。別にそれが間違っているとか、悪いことだ、と申し上げているのではありません。人生色々です。ですが、皆さんに願うことは、美術館に行ったときに、「すべて見終わった」から、と5分で館内を退出するような人になって欲しくない、ということです。
 芸術品に触れたときに、自分では理解が及ばない表現方法で作品が作られていることを思い知ります。芸術は人生の模倣(もほう)ですから、それぞれの芸術家が自分の為(な)せる業(わざ)を駆使(くし)して、人生の一部分を表現しているものです。その意味では、良い作品、悪い作品、というのはないと僕は思っています。芸術品には、優れたものと、そうでないものが存在しているだけだ、と思っています。だって、良い人生、悪い人生なんてものは、神様にしか決められないんですから。
 音楽会に行き、クラッシック音楽に触れたり、バレエを鑑賞したり、演劇を見たりすることもこれと似たような側面を持ち合わせています。生きていくのに、クラッシック音楽も、バレエのような舞踊も、ドラマも必要ありません。小説や漫画だって不要なはずですし、映画やアニメだって、人生にとっては無用の長物ということになるでしょう。実際の世の中を見ていくと、そうなっているでしょうか。いいえ、そうはなってはいませんね。多くの人が、衣食住足りてなお、芸術、歴史、ドラマ、哲学、宗教、科学、自然に触れ続けようとする。それは私たちが、生きることを肯定しており、生きる喜びを感じており、生きていくことの素晴らしさを何度も確認しながらなおも生き続ける希望を持ち続けようとしている証に他ならないからではないでしょうか。勉強する、っていうのは、畢竟(ひっきょう)、生きることを肯定し、情熱を持って人生を謳歌することに他ならない、その為の基本姿勢だと言っても過言ではないのです。生きること、ただ生きていることに感謝をし、これを受け入れて、ありのままの姿で生き続けていくことだけでも尊いことです。
 翻って、生きていること、生きることを自覚することができるのは、動物の中で人間だけです。私は生きてここにいる、と自覚し、理解しているのは人間だけなのです。この素晴らしい人生をより素敵な人生に彩るために、勉強しようではありませんか。
 世界は私たちが知らないこと、わからないこと、未経験なことだらけに満ち溢(あふ)れています。それらに触(ふ)れ続けることこそ、生きる悦(よろこ)びを体感することです。勉強することは、生きる悦びに絶えず限りなく到達を目指し続けることなのです。
 勉強は教養を編(あ)み上げます。教養はあってもなくても良いものです。衣食住足りた後に添えられるものです。一方で、教養がないまま日々を暮らし続けることほど、寂しいこともありません。旅行に行き、歴史的遺物(いぶつ)や芸術品に触れたとき、自然に触れたとき、強く深く直感と感性が起動し、関心と感動に胸が揮(ふる)える人生を、ぜひ皆さんに送っていただきたいと僕は強く思っています。


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