憧れ、慕い、追いかけて

大村はまさんという昭和の名教師がいらっしゃった。大村はまさんのご著書を何度も読み、教師でいること、教師であることは何かを30代随分と考えた。大村さんは戦後、焼け野原の教室で、教鞭をとられた方である。

ご著書の中で、こんな一節が紹介されている。

大村はうら若き新任教諭で、焼け野原の中、途方に暮れていたそうだ。鉛筆も消しゴムもノートも黒板もない。子供達は教材も持っておらず、学校にも教具はない。大村は焼け出されて親を失った子供や、食うや食わずの生活をしている子供達を前に必死に考えた。

こんな窮状に置かれている子供達に自分はどんな授業をすれば良いか。何を教えろと言うのか。子供達にどんなことを伝えるべきなのか。焼け出された学校で、何から始めれば良いのか。新任教師であり、未熟であることの不安や恐れに加え、学校を取り巻く環境は困難を極めていたそうである。

大村は、必死に筆記具や、ノートの代わりになる紙をかき集めた。鉛筆は焼け出された中から、ちびた3cmほどの鉛筆、紙は新聞広告などの裏紙。教科書などない。考えに考え抜いて、子供達に自己表現をさせようと思い立ち(こう言う極限状態に置かれている人間の判断や決断は、しばし間違うことはない。人間の直観力や生き抜く力は素晴らしい)、何かないか、何を教材にすれば良いか、考えに考えた挙句、新聞の記事を読ませて、思ったことをとにかく書きなさい、と言う指導をなさったそうである。

ご本人も述懐されてあるが、この授業の指導法は、経験不足からか、稚拙であった、と述べておられる。論点はそこではない。彼女のこの時の判断と子供達への深い愛、教師として、目の前の子供達を立派に育て上げなければならない、と言う強烈な使命感、この子たちをなんとか立派に育てたい、そう言う想いが彼女を強く突き動かしていたに違いない。

この姿は、二十四の瞳に出てくる、新任教師の大石先生と重なる。吉永小百合さんの「北のカナリアたち」も、教師という意味では同様のモティーフを持った素晴らしい名作であるが、戦争というコードで共通している、という意味では、大村はまと二十四の瞳の大石先生のアナロジーの方が強い、と僕は思っている。(「北のカナリアたち」も、先生をしている仲間にはぜひ観て欲しい作品であることに変わりはないが)

大村はまさんの述懐に戻る。

大村は、子供達に指示を出し、作文を書かせる。子供達はめいめいにちびた鉛筆を黒ずんだ指で握りしめて、紙に思いを走らせる。大村はその姿を見て、全身が震える。子供達は体全体で思いを綴っている、どうして、すごい、なぜ、わあ、子供達の生きる力はすごい、と驚嘆の眼差しで彼らを見守る。

授業は終わり、大村は子供達の書いたものを集めて教室から職員室に戻る。廊下で子供達が書いたものを読みながら、溢れ出る涙が止まらなくなる。子供達の表現力が優れている、とか、誤字脱字がある、とか、子供達の文章が文法的におかしい、とか、そんなことではなく、悲惨で過酷な生活状況であったにも関わらず、子供達が生きる力を体いっぱいに表現していることを通じて、人間は強い、人は生きる力が強い、その生命の強さ、たくましさ、しなやかな強かさに深く胸を打たれ、涙はとめどなく流れ落ちてきたのである。

僕はこの話を何度読み返したか分からない。初めて読んだ時に涙が止まらなかった。先生っていいな、先生って仕事でよかったな、と思った。こんな先生になりたいな、と本気で思った。

新任の頃、初めて自主的に参加したセミナーで、中嶋洋一先生と出会った。中嶋先生のセミナーに参加する前に、先生のご著書である「英語好きにする授業マネージメント30の技」「学習集団をエンパワーする30の技―subjectからprojectへ」「英語のディベート授業30の技―生徒が熱狂・教室が騒然 」を読み、線を引き、読み込みまくった。

英語の授業が上手くなりたい、生徒たちが退屈そうにしたり、面白くなさそうにしたりする姿を見たくない、生徒たちが英語の授業に熱狂できるように、英語が好きになってくれるように、もっと勉強して、磨きたい、そういう思いで必死だったと思う。あまり記憶がないくらいなので、無我夢中だった、と言っても良いと思う。

本の中には、板書の意義、授業には5分前に教室に入ること、チャイムがなっているのに延々と授業をし続けないこと、生徒たちにさせなければいけないこと、という観点ではなく、生徒が書きたい、表現したい、英語で話したい、相手の話を聞きたい、と思わせる仕掛けや仕組み、目的を持って授業デザインをしなければ行き当たりばったりになり、Task on time(時間通りにきっちりと)というマインドセットになってしまうこと、とにかく、今の自分があるのはこれらの著書と中嶋先生との間接的な出会いのお陰である。

実際にお会いして、先生のセミナーの2時間はあっという間に過ぎてしまった。先生と二言、三言、ご挨拶をして、胸がカーッと燃え上がるように熱くなって会場を後にしたことが忘れられない。

その日の夜、先生の資料を見返し、先生のご著書を読み返し、それから3年間、鞄の中に先生の本を離さず持ち歩き、学校でも家でも、どこに行っても中嶋先生の本を読み、自分でノートに考えたことをまとめ、来る日も来る日も授業の指導案を練り直して毎日があっという間に過ぎていった。

先生のご著書のあとがきに、先生が富山県の中学校でご経験をなさったエピソードが書かれてあった。あるあとがきの中に、先生がサッカー部の顧問であった時に、生徒さんがバイク事故を起こして事故死され、サッカー部の生徒たちと葬式に行って、泣きながらおにぎりを食べたお話が紹介されてあった。僕は自分もサッカー部の顧問だったので、何度も何度もそのあとがきを読み返し、胸が熱くなったことを記憶している。

僕には人生の師として慕う、中別府温和先生との出会いがある。中別府先生は中学一年生の時から、英語を教わる、という名目で父のつてで出会った方である。中別府先生は僕との対話を通じて、語学を学ぶとは何か、文学とは何か、歴史とは何か、なぜ人は宗教を信仰しなければならないのか、哲学を読むこととは何か、人との関わりの中で最も大事なことは愛であること、など、人生の全てを語ってくださった。先生は僕にとって、人生のGuruであり、絶対に越えることのできない偉大なる師である。彼が僕を人として一から育てて下さった。

大村はまさんと中嶋洋一先生は、掛け替えのない憧れの教師モデルである。このお二人に出会えなければ、今の教師としての自分はなかった、と言っても過言ではない。中別府先生が人生の師であるとするならば、大村先生と中嶋先生は、僕にとって「教師の教師」である。教員として未熟であった僕にとって、彼らが著書で教えてくれることは何にも代え難い技術の伝達であり、教育の次世代への橋渡しであり、そして、生徒への愛こそが全てを突き動かしていくのだ、ということをご実践を通じて教えてくださった師匠である。

新潟の友達である荒木さんが、中嶋先生が佐賀に来るから、十督さんもきませんか、と声をかけてくれた。僕はすぐに申し込みをした。折しも7月は福島県のいわき市にセミナーでお邪魔しており、その際、コーディネーターであり、セミナー主催者であり、大の仲良しである松本くんが、中嶋先生のセミナーの事務局をしている関係もあって、この週末の研修会は、大好きな仲間が勢ぞろいで、中嶋先生のワークショップに参加できる、という恩恵に浴した。仲間との交流、登壇された佐賀県の先生方の素晴らしいご実践、気づきや発見だらけだった。自分はまだまだ怠けているな、と恥ずかしい思いがした。こんなことではいけないな、と改めて自省しながら、土日の資料を読んでいる。

中嶋先生と21年ぶりに再会できることは何にも代え難い喜びであった。僕の中には、僕が理想として描いている先生が、21年の間に変わっていたらどうしよう、という不安や恐れは全くなかった。それはどうでもいいことである。

自分を育て、支え、作ってくれた方にリスペクトを示す、先生にただ一言、今まで本当にお世話になりました、これからもどうぞよろしくお願いします、とお伝えする、それがこの会に参加を決めた気持ちだった。それ以外のことはどうでもよかった。どんな内容の発表であっても、僕は感謝の気持ちしかなかったと思う。

中嶋先生とは接点も繋がりもコネクションもなかった。直接顔見知りで、交流があれば違ったことが起こっていて、今の僕ももっとempoweredされていたかもしれない、という後悔のビジョンも想定できる。でも、僕は逆に、中嶋先生と、本の中だけでの繋がりを頼りに、先生を慕い、先生に憧れ、先生の背中を勝手に追いかけていた。自己陶酔も甚だしい限りである。

でも、想いというのは何も、毎日一緒に時間を過ごしているから、という物理的な理由で高まるものではない。この人に会いたい、この人が好きでたまらない、という気持ちが人を突き動かす。そういうものである。

僕が中嶋先生と大村はまさんから受けている最大の恩恵は、彼らの教育技術や視点、理念を学ばせていただいたことなどではない。「こんな人に僕もなりたい」という強い願望に火を灯してもらったことなのである。

そして教育の本質というのはまさに「憧れに裏打ちされた強い自己形成の願望を、生徒自らに起動させることにある」という点において、お二人の素晴らしい偉業は次世代に引き継がれていっているのである。

感謝しかない。自分はなんと恵まれた人生を歩まされているか、と思う。

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