「人は死ぬ」

「人は死ぬ」
 2月4日(火)1限にチャペルでお話ししたことを文章として再録いたします。所々、実際にライブで話したこととは異なる箇所もありますが、趣旨と論旨はきちんと1本の軸に収まるように文を編みました。一度聞いたお話を再度読んでくださって、本当に嬉しいです。有り難うございます。

(以下、チャペルのお話の内容)
●句読点なきアガペー
 皆さんにお話をする前に、前回のチャペルで劉(りゅう)先生のお話に深い感銘を受けたことをお話ししたいと思います。前回、劉(りゅう)先生は、「神様はあなたを愛している」というお話をしてくださいました。その時、先生はスライドを提示されましたが、そのスライドを見たとき、僕は深い感銘を受けました。スライドには日本語と英語が併記(へいき)してあり、「私はあなたを愛しています」”I love you”と書かれていました。僕はこのスライドを見た時に、ハッとしました。この文章には、句読点とピリオドがないのです。劉(りゅう)先生にどのような意図があったかはわかりませんが、この文章には終わりがありません。即(すなわ)ち、先生が示された愛には終わりがない、永遠の愛が注がれる、という意味だ、と僕は解釈しました。劉先生は、愛の形態を3つに分類され、それぞれ、エロス、フィリア、アガペーという形でご提示くださいました。僕は、このスライドには無償の愛であるアガペーを深く感じた。劉先生はなぜこの文章に句読点とピリオドを打たなかったのか、真意は定かではありません。僕は、劉先生の体に身体化されている「愛のカタチ」が、劉先生の内面の奥底をこの文章に映し出したのだと思います。心の奥底にあるものは無意識化に顕(あらわ)れると言います。僕はこの2つの文章に、劉先生の深いアガペーを感じて、深い感銘を受けました。彼女の愛の奥深さを感じ、神の愛を彼女を通して感じました。

●ある教え子の死
 今日のお話は「人は死ぬ」というお話です。私たちは「死ぬ」ということに対して無頓着(むとんちゃく)だと僕は思っていて、「死んでしまう」ということはどういうことなのかを、教え子の死を通して深く考えたので、皆さんとそのことをシェアしたいと思い、このテーマを扱うことにしました。
 僕の教え子である曽原義太朗(そはらよしたろう)君は、一昨年の10月6日に、事故で亡くなりました。義太朗くんは人懐っこい生徒で、勉強なんかちっとも真面目にしませんでしたが、僕も生徒達みんなも、先生たちも、義太朗のことが大好きでした。スポーツフェスティバルという体育イベントでクラス優勝をした高三の時、クラスで大泣きして、クラスメートから、可愛い人やね、と微笑ましく見られていたことが懐かしく思い出されます。

 義太朗は一昨年の8月、東京の大学から福岡へ戻ってきていました。たくさんの卒業生が西南へ帰ってくるので、僕は義太朗に会った時も、他の卒業生にかける言葉よろしく、「おお、今度飯でもいこうな!」と気軽に声を掛けていました。その時、義太朗は、チャペル前のトロフィー棚の前のコンクリートの柱に寄りかかり、恥ずかしそうにしていたことを今でもはっきりと憶えています。僕はその時、彼と酒席を伴(ともな)いませんでした。今でも、なぜあの時、無理をしてでも彼と時間を伴わなかったのか、悔やまれてなりません。

 彼が死んでしまったのは不慮(ふりょ)の事故です。突然の訃報(ふほう)に際し、僕は「何故?」という感情と、激しく心を抉(えぐ)る苦痛に苛(さいな)まれました。義太朗はなぜ死んでしまったのか、なぜ彼は天に召されてしまったのか、と、深く悩み、考えてしまいました。日々、さしたる努力もせず、なんの苦労もなく、酒なぞを煽(あお)って、のうのうと生きている自分は今も平然とこの世にいるのに、前途有望(ぜんとゆうぼう)な義太朗が、なぜ21歳の若さで天に召されなければならなかったのか。本当に教え子の死が、これほどまでに苦痛を伴うことを僕は知りませんでした。彼がここにいないことが寂しく、切なく、残念でなりません。もっと彼と一緒にいたかった、話をしたかった、、、。

 皆さんはぜひ、親や教師よりも先に死なないで欲しいと思います。

「死」を、私たちは必ず迎えます。僕は「死んでしまおう」と言っているのではありません。「人が死ぬ」ことが避けられないのであれば、自ら「死」を選ぶことは避けるべきだ、と申し上げているのです。「死」は自分で選ぶこともコントロールすることもできない概念(基本の考え方)です。急ごうが、待っていようが、人は必ず「死」にます。誰にでも必ず平等に、終わりは来る、ということを覚えておいて欲しい、と僕は思っているのです。

●受けるよりは与える方が幸いである
 二つ目にお話しすることは、祖母のことです。祖母は16年前に膵臓癌(すいぞうがん)で亡くなりました。祖母の家は貧しく、祖母の父は、飲む、打つ、買う、の三拍子で、家に金を入れなかったため、小学生であった祖母は、女中奉公に出て、旅館、料亭、お金持ちの人の家の子守などをして働いていました。小学生が、です。祖母は生前、僕や僕の兄弟に口喧(くちやかま)しく「勉強しなさい、学校の先生の言いつけを守りなさい」と口を酸っぱくして言い立てました。正直申し上げて、彼女の言い分が口煩く(くちうるさく)感じることもありました。
 祖母が亡くなった後、母と、祖母の家の遺品整理をしている時、仏壇の引き出しから、ビニール袋に入った何十枚もの札束(さつたば)と、広告の裏紙に、「サトウ、シオ、サシミ、ショウユ、ゴトウハツコ」と書かれたメモ紙が見つかりました。
 祖母は生前、安全対策の為に、現金を銀行に預けて欲しい、と何度も母から頼まれていたのに、「自分は字が書けないから、銀行に行ったら恥をかく。銀行の人に迷惑を掛ける。だから恥ずかしくて銀行に行けない」と終生、銀行に金を預けることを拒んでいたことを、僕は母から聞き知りました。

 母と僕は、この紙切れを見た時、抱き合って泣きました。涙が止まりませんでした。

 祖母はおそらく、学びたくてたまらなかったのだと思います。勉強したくて、したくて、たまらなかった。でも、彼女が生きた環境が、それを彼女に許さなかった。だから彼女は終生(しゅうせい)、働かざるを得なかった。
 彼女は、僕の母、姉、弟、僕の4人を学校にやるために懸命に働き、自分のわがまま一つ、言いませんでした。僕や母や兄弟の学費は、彼女の働きから出ていました。でも、彼女は、一切、何も言いませんでした。
 
 彼女は、「学びたい、勉強がしたい、もっと知りたい。」という思いを、自分ではなく、下の世代にバトンを渡すことにより、慰め(なぐさめ)ようとしたのではないか、と僕は思います。だから彼女はあんな風に口煩(くちうるさ)かったのだと思います。
 膵臓癌(すいぞうがん)と診断された後も、祖母は一切動じることなく、毎日すべきことを淡々とこなして死んでいきました。清々(すがすが)しさすら感じる終焉(しゅうえん)でした。目の前にある小さなことを、淡々と、泰然自若(たいぜんじじゃく)と繰り返して、天に召されて行きました。 
 一昨年亡くなった樹木希林さんという女優さんがいらっしゃいました。彼女は僕の祖母を彷彿(ほうふつ)させる存在感があり、彼女が出ているドラマや映画を見ると、僕はいつも、なんだか祖母にまだ生きて会えているような心持ちがして、彼女のことがとても好きでした。樹木希林さんが亡くなったのは義太朗が亡くなる2週間前くらいでした。
 樹木希林さんは全身癌であることを宣告され、余命幾(いく)ばくもないことが分かっていました。彼女は抗がん剤治療を受けることも、薬の投与されることも拒み、死に際する最後の瞬間まで、女優の仕事をやり遂げました。(映画「あん」「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」「歩いても歩いても」「東京タワー」「万引き家族」などの映画で樹木さんの演技に触れることができます。ご家族でぜひ観ていただきたい作品群です。)
 彼女は死ぬことが分かってから、生きることを引き延ばすことはしませんでした。寧(むし)ろ、もう時間がないのだからと、生きているうちにできることを、貪欲になんでもやろう、と思ってらっしゃったのではないか、そんな風に最後まで「今」と向き合い続けて一生を閉じられたのではないか、と僕は思っています。「死」を意識していらしたからこそ、彼女の残りの人生は輝いていたのではないか、、、。僕はそう思います。

 僕の卒業生にSくんという生徒がいました。彼はサッカー部の生徒でした。就職が決まったと言うので、一緒に焼き鳥屋に行こうという話になり、サッカー部O B数名と一緒に薬院の焼き鳥屋に行ったことを憶えています。Sはどこに就職するの、という話になった時に、彼は意気揚々と、「僕は〇〇銀行に就職が決まりましたよ、先生!僕は勝ち組ですよ!先生、僕はこれからどんどん成り上がってやりますよ!」と教えてくれました。僕はとても悲しい気持ちに包まれました。彼と中1から西南で6年間も過ごし、彼は大学でもキリスト教主義の大学に行ったはずなのに、彼の心に拓(ひら)かれなかったものがまだまだあるんだな、と思い、自分たちの弱さを神様から知らされた気持ちがしたのです。
 咄嗟(とっさ)に僕は彼に、「小学校1年生で学校を中退した僕の祖母は、では、負け組ですね。」と彼に向かって言ってしまいました。一部始終を聞いていたMくんというサッカー部のキャプテンだった人が、「S、先生に謝れ」と言いました。Sくんは「先生、そういう意味じゃなかったんです。すいませんでした」と僕に謝りました。でも、僕は彼に返しました。「あなたと一緒に6年、西南で過ごしたのに、あなたには僕たちが伝えたかったことは伝わらなかったね。僕たちは学ぶべきことがまだまだたくさんあるんだよね。」とポツリと彼に託しました。
 人生に勝ち負けはあるのでしょうか。勝ちか、負けかを決める基準はなんでしょうか。学歴でしょうか。持っているお金の額でしょうか。上手に生きる術(すべ)でしょうか。そういう基準で行けば、僕の祖母は完全に負け組ということになるでしょう。
 人生に勝ち負けなど、ないと思う。どんな人も、この世に生まれ出(いず)ることにより、神様からあらゆる恩沢(おんたく)に与(あずか)り、今を生きている、その一点の事実に狂いがあれば、僕たちの人生は無価値であることを、僕たち自身が認めなければいけないことになります。
 神様は生きとし生けるもの全てを愛し、様々な境遇(きょうぐう)に於(お)いて、私たちの至らなさ、不完全さ、罪深さ、弱さを全て主イエスの血によって贖(あがな)ってくださいました。
 この教訓は、その、キリスト教の原点に、共に立ち返るように、と、神様が備えてくださった大切なタイミングだった、と思います。
 旧約聖書、伝道の書3章11節に、『神のなされることは、皆、その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされる業(わざ)を、初めから終わりまで、見きわめることはできない』と聖書に書いてある通りです。
 西南が子供達に伝えるべきことは3つしかありません。それは「信仰」「希望」、そして「愛」です。この中で最も大いなるものは「愛」である、と聖書には書いてあります。これ以上でもこれ以下でもない。西南が未来からの留学生である子供たちに託すべきことはこの3つしかありません。

●「死」は人生の終わりであり、「死」は平等である
 ローマの第五賢帝である、マルクス=アウレリウスが「自省録」という本の中で、次のように述べています。アウレリウスはおじいちゃんとお父さんも政治家であったため、自分では哲学者になりたいと思い勉強をしていましたが、跡を継がなければならない使命感から、不本意に皇帝になった人です。

「あたかも君がすでに死んだ人間であるかのように、現在の瞬間が君の生涯の終局であるかのように、自然にしたがって余生を過ごさなくてはならない。(自省録 第7巻56)」

 義太朗の死、祖母ハツコと樹木希林さんの死、これらの死は「不慮の事故」と「寿命」と、と言う風に場合分けすることができる。中村哲先生の死も「不慮の事故」「殺人による死亡」です。でも、どんな形態であれ、「死」が私たちの人生の終わりであることには変わりはありません。
もし私たちの命が終わってしまったら、私たちがやり残したことや、悔やんでしまうことは、誰が責任を持って果たしてくださるのでしょうか。なぜ私たちは、今死んだら後悔する、無念だ、と残念に思うのでしょうか。それは、私たちの命が未来永劫、永遠に続くと思って、死ぬことを考えずに生きているからではないでしょうか。自分が死んだら、自分のことは忘れ去られてしまう。人はいつ死んでもおかしくない。そう考えると、「過去」にしがみついてくよくよしても、「過去」は二度と戻ってこないし、いつ死ぬかわからないのに、「未来」のことを案じても、「未来」は自分の自由にはできない。僕は彼ら4名の死を通して、そのことを神様から告げ知らされました。「今、現在」の事に一生懸命であることが「いつ死んでも悔いはない」と思えることにつながるのではないか、とローマ第五賢帝アウレリウスの言葉に添えて、神様の御言葉を拝受しました。

中村先生は、テロリストグループから殺人予告を何度も受けていたそうです。自動車に乗っている時、テロリストに襲われて一番命を落としやすいのは助手席で、その為、要人などは後部座席に乗るのが通例らしいのですが、中村先生はパシュトゥン人(アフガンの部族人)の人を何人たりとも助手席に座らせなかったそうです。また、殺人予告がなされても、灌漑工事を行っている現場を訪れることを決してやめようとはされなかったそうです。中村先生は「殺される」かもしれないことは予めわかっていたはずです。なのに、彼は敢えて、テロの危険度が高い地域へも、日々淡々と出向き、自分が今やるべきことに意識を淡々と集中し続けた。「今」に集中し続けることによってしか、人生を全うさせうる行為はなし得ない、と言うことが身体化されていたのだと思います。だから、死ぬことよりも、今日生きてできることに意識を集中し続けておられたのだと思います。

●「それゆえあなたがたは翻って生きよ」
 エゼキエル書18章32節に以下の言葉があります。
『わたしは何人の死をも喜ばないのである、と主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ。』

僕はこの御言葉を高校生の時、キリスト教のキャンプに行った時に初めて読みました。その頃は「翻って生きる」という言葉の意味がよくわかりませんでした。辞書を引くと「今までとは違った立場や方面からみるさま。反対に。」と書いてあります。
 死ぬことが分かっているからと言って絶望するのではなく、死ぬことが分かっているからこそ、今この瞬間に生きていることを喜び、精一杯生きていきなさい、という風に捉えることが正しいのだと僕は思っています。今、目の前に見えるもの、聞こえるもの、感じるものを大切にすること、善い人で居続けようとすること、今ここにいる自分を大切にすること、それが「死を翻って生きる」ことなのではないでしょうか。
 僕は義太朗が死んでから、自分はもういつ死んでも良いと思うようになりました。やり残したことも後悔することもない、どうせそんなことをくよくよしても、死ぬんだから、死は突然来るから、と思っています。だから今を大切にしたいと思っています。ありがとう、と1回でも多く言いたい。大好きだよ、と心から何度も伝えたい。ごめんね、と素直にまっすぐに言いたい。一人でも多くの人を憎み恨んで嫌うより、一人でも多くの人を無条件に愛して死にたい、そう強く思っています。強い人になることよりも、弱い人の側にいる隣人でありたい。やさしい人でいたい、そう思います。
 西田幾多郎という哲学者の人が明治時代にいました。彼の本「善の研究」という1冊の中に、「宗教的欲求」という章があり、宗教とはどんなものなのか、ということが書かれています。大学生になったばかりの時に読んだ時にどきどきして読みましたが、今ではそれが更に実感を伴って理解されるようになりました。
『世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。しかしかくの如き問は何故に生きる必要があるかというと同一である。宗教は己の生命を離れて存するのではない、その要求は生命其の者の要求である。かかる問を発するのは自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。真摯に考え真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的欲求を感ぜずには居られないのである。』
 アカネ先生がチャペルの際に、雅歌の一節を紹介して下さいました。神様の至上の愛が人間に注がれていることを表す御言葉でした。僕はこの言葉がとても好きです。
雅歌4章7節『わが愛するものよ、あなたはことごとく美しく、少しの傷もない。』
 人は死にます。必ず死にます。それゆえ私たちは翻って生きることが大切だと僕は思います。私たちは神様に愛されてこの世に生まれてきました。神様の御言葉に聞き従い、最も弱い人の隣人として、善き人として、1日1日を皆さんと共に、大切に生きていきたい、そのように思っています。
 

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