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手間を知るということ

このところなんとなくぼんやり考えていることがある。

ネットとかやっていると、ありとあらゆる場面において自動化や効率化を求める意見が目につくようになった。一言でいうと「無駄な時間は一秒でも排除すべし」という論調が蔓延しているように思う。

例えばTwitterの投稿などを見ていると、レジの会計が面倒などといった理由でキャッシュレス化を望むといった具合だ。

キャッシュレス化を望むこと自体はいいのだが、キャッシュのみの支払いに対してあまりにもぐだぐだ執拗に不平不満をもらしているのを見ると、キャッシュを持ち歩いて会計をするということがそこまで面倒で我慢ならないことなのかと不思議に思う。

二度と取り戻すことができない「時間」は貴重。もちろんそのことに異論はない。だが、何でもかんでも思い通りに事が運んでくれるのが当たり前で、それがほんの少し滞っただけでそこのシステムにいちゃもんつけたり執拗に文句を並べたりするのは余裕がないなと感じてしまう。

面倒や無駄を除しようとすることは必ずしも悪いことではないが、そればかりではなくその一方で「手間を知る」ことも必要で大切なのではと私は思うのだ。


多少大げさな言い方かもしれないが、そもそも生きていくこと自体「準備」と「後始末」の繰り返しだと私は思っている。そしてそれは、魔法のようにいつの間にか快適だったり、綺麗になっていたり、腹を満たしてくれたりするものではない。

場所や状況によってはテクノロジーが通用するとは限らないし、何もかも自分の思い通りになるわけではない。なのに、ほんのちょっとしたことで不平不満をもらす耐性のなさは何なのだろうか。

よくよく考えてみて、「当たり前」が「当たり前ではない」ということに気づきにくくなったというのも一因なのではと思い至った。

手間を省いた快適さに慣れ切ってしまうと、自然の摂理として本来こういうものだということを見えづらくなり、物事がスムーズにいかなくなるとたちどころに不満を持つようになってしまう。

つまり、いつの間にか手にしている「快適」に至るまでの手間やプロセスを想像できない。想像できないから、当たり前に思って感謝することができない。そういったことが現代社会の余裕のなさに拍車をかけているのではないかと思うのだ。

そして、それは「優しさ」や「思いやり」といった人として本来持つべき心を失わせるとても危険なことではないのかと私は考える。


手間を知るからこそ、その恩恵のありがたみを実感し、その手間を省くために費やされた労力に感謝することができる。だからこそ、効率化もいいけど「手間を知る」ことにも目を向けるべきなのではと思うのだ。

テクノロジーが悪いと言っているのではない。もう少し手間を省くために費やされた労力に感謝する心や、世の中は魔法でできているわけではなく何でも自分の思い通りにスムーズにいくわけではないという謙虚な心と大らかさがあっていいのではないかということだ。

散らかった部屋は片付けなければ綺麗にならない、洗濯物や食べ終わったお皿は洗わなければたまる・・・など、当たり前の「自然の摂理」を身をもって知ることで見えてくるものがある。それが「手間を知る」ということだ。


先にも述べたが、場所や状況によってはテクノロジーが通用するとは限らないし、何もかも自分の思い通りになるわけではない。そうなったとき臨機応変に適応できなければ、結局自分自身が困ることになる。これも「自然の摂理」であるということも現実だ。

地震大国であり、自然災害の多い日本においては特にである。

・・・なんて偉そうなことを書いている私は、生粋のなまけもので面倒くさがりだ。だからこそ、ここのところ漠然と考えているこのようなことを健忘禄としてここに書き記している。

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